必定して來報を招かず。佛の説きて此の四果の人は、我と同じく解脱の牀に坐すと言ふが如し。既に斯の功力有り、更に復何を憂へてか乃ち韋提の請に藉りて生路を求めん。然るに諸佛の大悲は苦者に於てす、心偏に常沒の衆生を愍念したまふ。是を以て勸めて淨土に歸せしむ。亦水に溺れたる人の如きは、急に須く偏に救ふべし、岸上の者何を用てか濟ふことを爲ん。斯の文を以て證す。故に知んぬ、諸師の所判、義前の錯に同じきを。以下知るべし。
[和會門 返對破]
第三に重ねて九品を擧げて返對して破すとは、諸師の上品上生の人は、是四地より七地に至る已來の菩薩と云ふは、何が故ぞ。『觀經』(意)に云く。「三種の衆生當に往生を得べし。何者をか三と爲す。一には但能く戒を持ち慈を修す。二には戒を持ち慈を修すること能はざれども、但能く大乘を讀誦す。三には戒を持ち經を讀むこと能はざれども、唯能く佛法僧等を念ず。此の三人各々己が業を以て專精に意を勵まして一日一夜乃至七日七夜相續して斷ぜず、各々所作の業を廻して往生を求願す。命終らんと欲する時、阿彌陀佛、化佛・菩薩・大衆とともに、光を放ち手を授けて彈指の頃の如くに即ち彼の國に生ず」と。此の文を以て證するに、正しく是佛世を去りたまひて後、大乘極善の上品の凡夫、日數少しと雖も、作業時猛し、何ぞ判じて上聖に同じきを得んや。然るに四地より七地已來の菩薩は其の功用を論ずるに、不可思議なり。豈一日七日の善に藉りて、華臺に手を授けて迎接して往生せしめんや。此れ即ち上が上を返對し竟んぬ。次に上が中を對せば、諸師の是初地より四地已來の菩薩と云ふは、何が故ぞ。『觀經』に云く。「必ずしも大乘を受持せず」と。云何が「不必」と名くる。或は讀み讀まず、故に「不必」と名く。但善解と言ひて未だ其の行を論ぜず。又(觀經意)言く。「深く因果を信じ大乘を謗ぜず、此の善根を以て廻して往生を願ず。