六に「時大目連」より下「爲王説法」に至る已來は、其の父の王請に因りて聖法を蒙ることを得ることを明す。此れ目連他心智を得て遙かに父の王の請意を知りて、即ち神通を發して、彈指の頃の如くに王の所に到ることを明す。又人の神通の相を識らざるを恐るるが故に、快鷹を引きて喩と爲す。然るに目連の通力は、一念の頃に四天下を遶ること百千の帀なり、豈鷹と類を爲すことを得んや。是の如きの比挍は乃ち衆多有り、具に引くべからず。『賢愚經』に具に説くが如し。「日日如是授王八戒」と言ふは、此れ父の王命を延べて目連をして數々來りて戒を受けしむることを致すことを明す。 問て曰く。八戒既に勝れたりと言はば、一び受くるに即ち足りなん、何ぞ日日に之を受くることを須ひん。答て曰く。山は高きを厭はず、海は深きを厭はず、刀は利きを厭はず、日は明けきを厭はず、人は善を厭はず、罪は除くことを厭はず、賢は德を厭はず、佛は聖を厭はず。然るに王の意は既に囚禁せられて、更に進止を蒙らず。念念の中に、人の喚び殺さんことを畏る。此が爲に晝夜に心を傾けて、仰いで八戒を憑む。積善增高にして來業に資せんと擬することを望欲す。「世尊亦遣富樓那爲王説法」と言ふは、此れ世尊慈悲の意重くして、王の身を愍念したまふに、忽に囚勞に遇ひて、恐る憂悴を生ぜんことを。然るに富樓那は、聖弟子の中に於て最も能く説法し、善く方便有りて人の心を開發せしむ。此の因縁の爲に、如來發遣して王の爲に法を説きて以て憂惱を除かしむることを明す。
七に「如是時間」より下「顏色和悅」に至る已來は、正しく父の王、食と聞法とに因て、多日死せざることを明す。此は正しく夫人多時に食を奉りて以て飢渇を除き、二聖又戒法を以て内に資けて善く王の意を開く。食は能く命を延べ、戒法は神を養ふ。苦を失し憂を亡じて顏容和悅ならしむることを致すことを明す。
上來七句の不同有りと雖も、廣く禁父の縁を明し竟んぬ。