生盲にして罪重く、障隔處深し。願はくは佛の慈悲もて、攝受護念し、指授開悟せしめ、所觀の境願はくは成就することを得しめたまへ。今頓に身命を捨て、仰いで彌陀に屬す。見ると見ざると、皆是佛恩の力なりと。此の語を道ひ已りて、更に復心を至して懺悔し竟已りなば、即ち靜處に向ひて、面を西方に向ひ、正坐跏趺すること、一に前の法に同じくせよ。既に心を住し已りなば、徐徐に心を轉じて、彼の寶地の雜色分明なるを想へ。初めて想はんには多境を亂想することを得ざれ、即ち定を得難し。唯方寸一尺等を觀ぜよ。或は一日・二日・三日、或は四・五・六・七日、或は一月・一年・二・三年等、日夜を問ふこと無く、行住坐臥に、身口意業、常に定と合せよ。唯萬事倶に捨てて由失意・聾盲・癡人の如くなれば、此の定必ず即ち得易し。若し是の如くならざれば、三業縁に隨ひて轉じ、定想波を逐ひて飛ぶ。縱ひ千年の壽を盡すとも、法眼未だ曾て開けず。若し心に定を得る時は、或は先づ明相現ずること有り、或は先づ寶地等の種種に分明なる不思議の者を見るべし。二種の見有り。一には想見。猶知覺有るが故に、淨境を見ると雖も、未だ多く明了ならず。二には若し内外の覺滅して、即ち正受三昧に入れば、見る所の淨境、即ち想見の比挍爲ることを得るに非ず。
九に「令其蓮華」より下「八万四千光」に至る已來は、正しく寶華に種種の莊嚴有ることを明す。即ち其の三有り。一には一一の華葉に衆寶の色を備へたることを明す。二には一一の葉に衆多の寶脈有ることを明す。三には一一の脈に衆多の光色有ることを明す。此れ行者をして心を住して一一に之を想はしめて、悉く心眼をして見ることを得しむ。既に華葉を見已りなば、次に葉の間の衆寶を想ひ、次に寶多光を出すに、光寶盇と成ることを想ひ、次に華臺臺上の衆寶、及び衆網等を想ひ、次に臺上の四柱の寶幢を想ひ、次に幢上の寶幔を想ひ、次に幔上の寶珠、光明雜色にして虚空に徧滿して、各々異相を現ずることを想へ。是の如く次第に一一に心を住せしめて捨てざれば、