及び一切の三乘五道、一一の聖凡等の所作の善根、深く隨喜を生ず。諸佛・菩薩の所作の隨喜の如く、我も亦是の如く隨喜して、此の隨喜の善根、及び己が所作の善根を以て、皆悉く衆生と之を共にして、彼の國に回向す。故に回向門と名く。又彼の國に到り已りて、六神通を得、生死に回入して、衆生を敎化すること後際を徹窮して心に厭足無く、乃至成佛まで亦回向門と名く。五門既に具しぬれば定んで往生を得ん。一一の門上の三心と合して、隨ひて業行を起せば、多少を問はず、皆眞實の業と名くるなり、應に知るべし。
又勸めて四修の法を行ぜしめて、用て三心・五念の行を策して、速に往生を得しむ。何者をか四と爲る。一には恭敬修、所謂彼の佛及び彼の一切の聖衆等を恭敬し禮拜す。故に恭敬修と名く。畢命を期と爲して誓ひて中止せざる、即ち是長時修なり。二には無餘修、所謂專ら彼の佛の名を稱して、彼の佛及び一切の聖衆等を專念し專想し專禮し專讚して、餘業を雜へず。故に無餘修と名く。畢命を期と爲して誓ひて中止せざる、即ち是長時修なり。三には無間修、所謂相續して恭敬し禮拜し稱名し讚歎し憶念し觀察し回向發願し、心心相續して餘業を以て來し間へず、故に無間修と名く。又貪瞋煩惱を以て來し間へず。隨ひて犯せば隨ひて懺して、念を隔て時を隔て日を隔てしめず、常に淸淨ならしむるを亦無間修と名く。畢命を期と爲して誓ひて中止せざる、即ち是長時修なり。又菩薩は已に生死を免れて、所作の善法回して佛果を求む、即ち是自利なり。衆生を敎化して未來際を盡す、即ち是利他なり。然るに今の時の衆生、悉く煩惱の爲に繋縛せられて、未だ惡道生死等の苦を免れず。縁に隨ひて行を起して、一切の善根具に速に回して阿彌陀佛國に往生せんと願ぜん。彼の國に到り已りて、更に畏るる所無けん。