上の如きの四修、自然任運にして自利・利他具足せざること無し。應に知るべし。

又『文殊般若』(卷下意)に云ふが如し。「一行三昧を明かさんとおもふ、唯勸めて獨り空閑に處して諸の亂意を捨て、心を一佛に係けて相貌を觀ぜず、專ら名字を稱すれば即ち念の中に於て、彼の阿彌陀佛、及び一切の佛等を見たてまつるを得」と。 問て曰く。何が故ぞ觀を作さしめずして、直に專ら名字を稱せしむるは、何の意か有るや。答て曰く。乃し衆生障重くして、境は細なり心は麤なり、識り神飛びて、觀成就し難きになり。是を以て大聖悲憐して直に勸めて專ら名字を稱せしむ。正しく稱名易きに由るが故に、相續して即ち生ずと。 問て曰く。既に專ら一佛を稱せしむるに、何が故ぞ境現ずること即ち多き。此れ豈邪正相交り一多雜現するに非ずや。答て曰く。佛と佛と齊しく證して形二の別無し。縱使ひ一を念じて多を見ること何の大道理にか乖かんや。

又『觀經』に云ふが如し。佛坐觀・禮念等を勸めて、皆須く面を西方に向ふ者は最勝なるべし、樹の先より傾けるが倒るるに必ず曲れるに隨ふが如し、故に必ず事の礙有りて西方に向かふに及ばずば、但西に向かふ想を作すも亦得たり。 問て曰く。一切諸佛三身同じく證し、悲智果圓かにして亦無二なる無かるべし、方に隨ひて一佛を禮念し課稱せんに、亦應に生を得べし。何が故ぞ、偏に西方を歎じて、專ら禮念等を勸むる、何の義か有るや。答て曰く。諸佛の所證は平等にして是一なれども、若し願行を以て來し收むるに、因縁無きに非ず。然るに彌陀世尊、本深重の誓願を發して、光明・名號を以て十方を攝化したまふ。但信心をして求念せしむれば、上一形を盡くし下十聲・一聲等に至るまで、佛願力を以て往生を得易し。是の故に釋迦及以び諸佛、勸めて西方に向ふるを別異と爲すのみと。亦是餘佛を稱念して、障を除き罪を滅すること能はざるには非ざるなり。知るべし。