若し能く上の如く念念相續して畢命を期と爲る者は、十は即ち十ながら生じ、百は即ち百ながら生ず。何を以ての故に、外の雜縁無し、正念を得たるが故に、佛の本願と相應するを得るが故に、敎に違せざるが故に、佛語に隨順するが故なり。若し專を捨てて雜業を修せんと欲する者は、百は時に希に一二を得、千は時に希に三五を得。何を以ての故に、乃し雜縁亂動す正念を失するに由るが故に、佛の本願と相應せざるが故に、敎と相違せるが故に、佛語に順ぜざるが故に、係念相續せざるが故に、憶想間斷するが故に、回願慇重眞實ならざるが故に、貪瞋諸見の煩惱來り間斷するが故に、慙愧懺悔の心有ること無きが故に。懺悔に三品有り。一には要、二には略、三には廣なり。下に具に説くが如し。意に隨ひて用ひるに皆得たり。又相續して彼の佛恩を念報せざるが故に、心に輕慢を生じ、業行を作すと雖も常に名利と相應するが故に、人我自ら覆ひて同行善知識に親近せざるが故に、樂みて雜縁に近づきて往生の正行を自障障他するが故に。何を以ての故に。余比日自ら諸方の道俗を見聞するに、解行不同にして、專雜異有り。但使意を專にして作さしむれば、十は即ち十ながら生ず。雜を修するは至心ならざれば、千が中に一も無し。此の二行の得失、前に已に辨ぜるが如し。仰ぎ願はくは一切の往生人等、善く自ら已が能を思量せよ。今身に彼の國に生ぜんと願はん者は、行住坐臥に、必ず須く心を勵まし己に剋して晝夜に廢すること莫かるべし。畢命を期と爲して、上一形に在るは、少しき苦に似たれども、前念に命終して後念に即ち彼の國に生れて、長時永劫に常に無爲の法樂を受く。乃至成佛までに生死を經ず、豈快に非ずや。應に知るべし。
[日沒讚]
第一に謹みて『大經』に釋迦佛阿彌陀佛の十二光の名を禮讚して往生を求願せよと勸めたまふに依て、一十九拜。日沒の時に當りて禮したてまつる。中下の懺悔を取るも亦得たり。