温和の春日にも轉た寒苦す。若し園林に趣かば衆菓盡き、設し淸淨の流に至れば變じて枯竭す。罪業の縁の故に、壽長遠にして逕ること一万五千の歳有り。衆の楚毒を受けて、空しく缺くること無きは皆是餓鬼の果報なり。煩惱の駚河衆生を漂はし、深き怖畏熾燃の苦と爲る。是の如きの諸の塵勞を滅せんと欲はば、應に眞實解脱の諦を修すべし。諸の世間の假名の法を離るれば、則ち淸淨の不動の處を得るなり」と。已上百十行の偈有り。今略抄す 若し略を存せば、馬鳴菩薩の賴吒和羅伎の聲(付法藏因縁傳卷五)に唱へて云ふが如し。「有爲の諸法は、幻の如く化の如し。三界の獄縛は、一として樂ふべきもの無し。王位高顯にして、勢力自在なるも、無常既に至れば、誰か存つことを得ん者ぞ。空中の雲の須臾に散滅するが如し。是の身は虚僞なること、猶し芭蕉の如し。怨爲り賊爲り、親近すべからず。毒蛇の篋の如し、誰か當に愛樂すべき。是の故に諸佛は、常に此の身を呵したまふ」と。已上 此の中に具に無常・苦・空・無我を演ぶれば、聞く者道を悟る。或は復堅牢比丘の壁上の偈(寶積經卷七八)に云く。「生死の斷絶せざるは、貪欲嗜味の故なり。怨を養ひて丘塚に入り、虚しく諸の辛苦を受く。身の臰きこと死屍の如く、九の孔より不淨を流す。厠の虫の糞を樂むが如しく、愚にして身を貪るも異なること無し。憶想して妄に分別するは、則ち是五欲の本なり。智者は分別せざれば、五欲則ち斷滅す。邪念より貪著を生じ、貪著より煩惱を生ず。正念にして貪欲無ければ、餘の煩惱も亦盡きん」と已上 過去の彌樓犍駄佛の滅後、正法滅せし時、陀摩尸利菩薩、此の偈を求め得て、佛法を弘宣し、無量の衆生を利益せり。或は復『仁王經』に四非常の偈有り、見るべし。若し極略を樂はば、『金剛經』に云ふが如し。「一切の有爲の法は、夢幻泡影の如く、露の如く亦電の如し。應に是の如き觀を作すべし」と。或は復『大經』(北本卷一四・南本卷一三)の偈に云く。「諸行は無常にして是生滅の法なり。生滅滅し已りぬれば寂滅を樂と爲す」と。已上 祇園寺無常堂の四の角に、頗梨の鐘有りて、鐘の音の中に亦此の偈を説く。