微妙にして柔軟なること兜羅綿の如し。足もて其の上を履むに、蹈下すること四寸、足を擧げ已るに隨ひて還復故の如し。晨朝を過ぎ已れば、其の華地に沒す。舊き華既に沒すれば更に新しき華を雨らす。中時、晡時、初・中・後夜も、亦復是の如し。此等の所有微妙なる五境は、見・聞・覺者をして身心適悅ならしむと雖も、而も有情の貪着を增長せしめ、更に無量の殊勝の功德を增す。凡そ八方・上下、無央數の諸佛の國中には、極樂世界の所有功德を、最も第一と爲す。二百一十億の諸佛の淨土の嚴淨なる妙事、皆此の中に攝在するを、若し是の如きの國土の相を觀ずる者は、無量億劫の極重の惡業をも除き、命終の後は、必ず彼の國に生ぜん。二種『觀經』『阿彌陀經』『稱讃淨土經』『寶積經』『平等覺經』『思惟經』等の意に依て之を記す 世親の『偈』(淨土論)に云く「彼の世界の相を觀ずるに、三界の道に勝過せり。究竟して虚空の如し、廣大にして邊際無し。 寶華千万種にして、池と流泉とに彌覆せり。微風華葉を動かすに、交錯して光亂轉す。宮殿の諸の樓閣、十方を觀るに無礙なり。雜樹に異の光色あり、寶欄遍く圍繞せり。無量の寶絞絡して、羅網虚空に遍ず。種種の鈴響を發して妙法音を宣吐す。 衆生の願樂する所、一切皆滿足す。故に我彼の阿彌陀佛國に生ぜんと願ず」と。
[二、欣求淨土 快樂無退]
第五に快樂無退の樂とは、今此の娑婆世界は、耽玩すべきこと無し。輪王の位も、七寶久しからず、天上の樂も、五衰早く來る、乃至有頂も輪廻期無し、況や餘の世人をや。事と願と違ひ、樂と苦と倶なり。富める者未だ必ずしも壽あらず、壽ある者は未だ必ずしも富まず。或は昨は富むとも今は貧なり、或は朝に生れて暮に死す。故に『經』に言く。「出づる息は入る息を待たず、入る息は出づる息を待たず。唯眼前に樂み去りて哀み來るのみに非ず、亦命終に臨まんも罪に隨ひて苦に墮す」と。彼の西方世界は、樂を受くること窮無く、人天交接して兩に相見ることを得。