慈悲心に薰じて互に一子の如し、共に瑠璃地の上を經行し、同じく栴檀林の間に遊戲す。宮殿より宮殿に至り、林池より林池に至る。若し寂かならんと欲する時は、風浪・絃管自ら耳下を隔たり、若し見んと欲する時は、山川・溪谷尚眼の前に現ず。香・味・觸・法も念に隨ひて亦然なり。或は飛梯を渡りて伎樂を作し、或は虚空に騰りて神通を現ず。或は他方の大士に從ひて迎送し、或は天人聖衆に伴ひて以て遊覽す。或は寶池の邊に至りて新生の人を慰問す。汝知るや不や、是の處を極樂世界と名け、是の界の主を彌陀佛と号す。今當に歸依したてまつるべし。或は同じく寶池の中に在りて、各々蓮臺の上に坐して互に宿命の事を説く。我本其の國に在りて、發心し道を求むる時、其の經典を持し、其の戒行を護り、其の善法を作し、其の布施を修すと。各々好憙する所の功德を語り、具に來生せる所の本末を陳ぶ。或は共に十方諸佛の利生の方便を語り、或は共に三有衆生の拔苦の因縁を議す。議し已れば縁を追ひて相去り、語り已れば樂に隨ひて共に往く。或は復七寶の山に登り、七寶の山・七寶の塔・七寶の坊は『十往生經』に出でたり 八功の池に浴す。寂然として宴默し、讀誦し解説す。是の如く遊樂すること相續して間無し。處は是不退なれば、永く三途八難の畏を免れ、壽も亦無量なれば、終に生・老・病・死の苦無し。心・事相應すれば愛別離苦無く、慈眼もて等しく視れば怨憎會苦も無し。白業の報なれば求不得苦も無し、金剛の身なれば五盛陰苦も無し。一び七寶莊嚴の臺に託しぬれば、長く三界苦輪の海と別る。若し別願有らば、他方に生ずと雖も、是自在の生滅にして、業報の生滅には非ず。尚不苦不樂の名だに無し、何に況や諸の苦をや。龍樹の『偈』(十住毗婆沙論卷五易行品)に云く。「若し人彼の國に生ずれば、終に惡趣及與び阿修羅に墮せず。我今歸命し禮したてまつる」と。