或は自力に由り、或は佛力を承けて、朝に往いて暮に來り、須臾に去り須臾に還り、遍く十方一切の佛刹に至り、面り諸佛に奉つかへたてまつり、諸の大士に値遇して、恒に正法を聞き大菩提の記を受く。乃至普く一切の塵刹に入りて、諸の佛事を作し、普賢の行を修す。亦樂しからずや。『阿彌陀經』『平等覺經』『雙卷經』意 龍樹の『偈』(十住毗婆沙論卷五易行品)に曰く。「彼の土の大菩薩、日日三時に於て、十方の佛を供養したてまつる、是の故に稽首し禮したてまつる」と。
[二、欣求淨土 增進佛道]
第十に增進佛道の樂とは、今此の娑婆世界は、道を修して果を得ること甚だ難し。何となれば、苦を受くる者は常に憂へ、樂を受くる者は常に著す。苦と云ひ樂と云ひ、遠く解脱を離れ、若しは昇若しは沈、輪回に非ずといふこと無し。適々發心して修行する者有りと雖も、亦成就すること難し。煩惱内に催し惡縁外に牽きて、或は二乘の心を發し、或は三惡道に還る。譬へば水中の月の波に隨ひて動き易く、陣前の軍の刃に臨むときは則ち還るが猶し。魚子は長じ難く、菴菓は熟すること少し。彼の身子等の、六十劫にして退きしが如きは是なり。唯釋迦如來のみ、無量劫に於て難行し苦行し、功を積み德を累ねて菩薩の道を求めて、未だ曾て止息したまはず。三千大千世界を觀るに、乃至芥子計の如きも是の菩薩の身命を捨ててまふ處に非ざること有ること無し。衆生の爲の故なり。然る後に乃ち菩提の道を成ずることを得たまへり。其の餘の衆生は己が智分に非ず。象の子は力微なれば身刀箭に歿す。故に龍樹菩薩(安樂集卷上所引智度論卷二九意)云く。「譬へば四十里の氷に、如し一人有りて、一升の熱湯を以て之に投ぜんに、當時は氷減ずるに似たれども、夜を經て明に至れば乃ち餘の者よりも高きが如し。凡夫の此に在りて發心して苦を救はんも亦復是の如し。貪・瞋の境は順・違多きを以ての故に、自ら煩惱を起して返て惡道に墮せん」と。已上 彼の極樂國土の衆生は、多の因縁有るが故に畢竟じて退せず佛道を增進す。一には佛の悲願力常に攝持するが故に。二には佛光常に照らして菩提心を增すが故に。