十二には受生の異なり。謂く天は男女の膝の下、懷の中に在り、西方は華の裏、殿の中に在り。二處の勝劣、其の義斯の如しと雖も、然も並びに佛勸め讃めたまへるなり。相是非すること莫れ」と。已上、凡そ二界勝劣の差別を立つ 慈恩は十の異を立てたり。前の八は感師の所立を出でず。故に更に抄せず。其の第九(西方要決意)に云く。「西方は佛來迎したまふ、兜率は爾らず」と。感師(群疑論卷四)云く。「來迎は同きなり」と。第十(西方要決意)に云く。「西方は經論に、慇懃に勸むること極めて多し。兜率は多きに非ず亦慇懃非ず」と云云。感師(群疑論卷四)又往生の難易に於て十五の同の義と、八の異の義を立てたり、八の異の義とは、「一には本願の異。謂く彌陀には引攝の願有り、彌勒には願無し。願無きは自ら浮びて水を度るが若く、願有るは舟に乘りて而も水に遊ぶが若し。二には光明の異。謂く彌陀佛の光は、念佛の衆生を照らし、攝取して捨てたまはず。彌勒は爾らず。光の照らすは晝日の遊の如く、光無きは暗中の來往に似たり。三には守護の異。謂く無數の化佛・觀音・勢至、常に行者の所に至りたまふ。又稱讃淨土經に云く。十方の十兢伽沙の諸佛の攝受したまふ所なりと。又十往生經に云く。佛二十五の菩薩を遣はして、常に行人を守護したまふと。兜率は爾らず。護有るは多人共に遊ぶに強賊の逼る所を畏れざるが若し。護無きは孤り嶮徑に遊ぶに必ず暴客の爲に侵さるるに似たり。四には舒舌の異。謂く十方の佛、舌を舒べて證成したまふ。兜率は爾らず。五には衆聖の異。謂く華聚菩薩・山海慧菩薩、弘誓願を發さく、若し一衆生として西方に生ずること盡きざること有らんに、我若し先づ去らば、正覺を取らじと。六には滅罪の多少。前の如し 七には重惡の異。謂く五逆罪を造れるものも、亦西方に生ずることを得。兜率は爾らず。八には敎説の異。謂く無量壽經に云く。橫に五の惡趣を截り、惡趣自然に閉づ、道に昇るに窮極無し、往き易くして人無しと。兜率は爾らず。十五の同の義もて猶生れ難しと説くべからず。況や異に八の門有り、而るを乃ち説きて往き難しと言はんや。請ふ諸の學者、