「般舟三昧經に説かく。跋陀和菩薩、釋迦牟尼佛を請じて言さく。未來の衆生は云何してか十方の諸佛を見たてまつること得んと。佛敎へて阿彌陀を念ぜしめたまふに、即ち十方一切の佛を見たてまつると。此の佛特に娑婆の衆生と縁あるを以て、先づ此の佛に於て專心に稱念すれば三昧成じ易きなり」と。已上 又觀音・勢至は本是の土に於て菩薩の行を修し、轉じて彼の國に生ず。宿縁の追ふ所豈機應無からんや。
[三、極樂證據 對兜率]
第二に兜率に對すとは、 問。玄奘三藏(法苑珠林卷一六・諸經要集卷一所引)云く。「西方の道俗、並に彌勒の業を作す。同じく欲界にして其行成じ易きが爲なり。大小乘の師、皆此の法を許す。彌陀の淨土は恐らくは凡鄙穢れて修行成じ難からん。舊き經論の如きは、七地已上の菩薩、分に隨ひて報佛の淨土を見ると。新論の意に依らば、三地の菩薩、始めて報佛の淨土を見ることを得べしと。豈下品凡夫、即ち往生すること得べけんや」と。已上 天竺既に爾なり、今何ぞ極樂を勸むるや。答。中國・邊州、其の處異なりと雖も、顯密の敎門其の理是同じ。如今引くし所の證據既に多し。寧んぞ佛敎の明文に背きて天竺の風聞に從ふべけんや。何に況や祇洹精舍の無常院には、病者をして西に面かしめて佛の淨刹に往くの想を作むといふをや。具には下の臨終行儀の如し。明らかに知んぬ、佛意偏に極樂を勸めたまふことを。西域の風俗、豈之に乖かんや。又懷感禪師の『群疑論』(卷四意)には、極樂と兜率とに於て十二の勝劣を立てたり。「一には化主の佛と菩薩と別なるが故に。二には淨穢の土別。三には女人の有無。四には壽命の長短。五には内外の有無。兜率、内院退せず、外院退有り。西方悉く内外無く退無し 六には五衰の有無。七には相好の有無。八には五通の有無。九には不善心の起不起。十には滅罪の多少。謂く彌勒の名を稱すれば、千二百劫の罪を除き、彌陀の名を稱すれば八十億劫の罪を滅す。十一には苦受の有無。