此の相現ずる時、佛の諸の毛孔より八万四千の微細の少光明を生じ、身の光を嚴餝して、極めて愛すべからしむ。此の光一尋なれども、其の相は衆多なり。乃至他方の諸の大菩薩、此を觀ずる時は、此の光隨ひて大なり。已上   是の諸の相好の行相・利益・廢立等の事は、諸文不同なり。然るに今三十二の略相は多く『大般若』に依り、廣相と隨好と及び諸の利益とは『觀佛經』に依る。又相好の業に其の總別有り。惣因と言ふは、『瑜伽』の四十九に云く。「始め淸淨勝意樂地より、一切の所有菩提の資糧は、差別有ること無く、能く一切の相及び好を感ず」と。云云  別因と言ふは、彼の『論』に三種有り。一には六十二の因なり。具には『論』の文の如し。二には淨戒なり。若し諸の菩薩淨戒を毀犯すれば、尚下賎の人身をすら得ること能はず。何に況や能く大丈夫の相を感ぜんや。三には四種の善修なり。一には善く事業を修し、二には善巧方便し、三には有情を饒益し、四には无倒廻向なりと。已上 別因の中にも、亦多くの差別有れども、今は且く因果相順の者を取れり。前後の次第は諸文亦不同なれども、今は宜しきに隨ひて取りて次第を爲せり。相と好とを間雜して以て觀法を爲すことは、亦是『觀佛經』の例なり。順觀の次第は、大途是の如し。逆觀は之に反し、足より頂に至る。『觀佛三昧經』(卷一)に云く。「眼を閇ぢて見ること得んには、心想の力を以てせよ。了了にして分明なること佛の在世の如くせよ。是の相を觀ずと雖も衆多なることを得ざれ。一事より起して復一事を想へ。一事を想ひ已れば復一事を想へ。逆順反覆すること十六反を經よ。是の如くして心想を極めて明利ならしめ、然して後心を住めて念を一處に繋けよ。是の如くして漸漸に舌を擧げて腭に向へ、舌をして政しく住らしむること、二七日を經よ。然して後身心安穩なることを得べし」と。導和尚(觀念法門意)云く。「十六遍の後心を住めて白毫の相を觀ぜよ。雜亂することを得ざれ」と。