況や復佛の具足せる身相を觀ぜんをや」と。已上 明らかに知んぬ、初心も亦樂欲に隨ひて眞身を觀ずるを得といふことことを。 問。言ふ所の彌陀の一身は、即ち一切佛の身なりとは、何の證據か有る。答。天台大師(十疑論)云く。「阿彌陀佛を念ずれば、即ち是一切の佛を念ずるなり。故に華嚴經に云く。一切諸佛の身は、即ち是一佛の身なり。一心・一智慧なり、力・无畏も亦然なり」と。已上 又『觀佛三昧經』(卷一〇)に云く。「若し一佛を思惟すれば即ち一切佛を見たてまつる」と。云云 問。諸佛の躰性の无二なるが如く、念ずる者の功德も亦別无しと爲んや。答。等しくして差別无し。故に『文殊般若經』の下卷に云く。「一佛を念ずる功德は无量无邊なり、亦无量の諸佛の功德と无二なり。不思議の佛法は、等しくして分別无く、皆一如に乘じて最正覺を成じ、悉く无量の功德と辨才とを具す。是の如く一行三昧に入る者は、盡く恒沙の諸佛の法界の无差別の相を知らん」と。已上 問。諸相の功德は、肉髻と梵音と、是を最勝と爲す。今多く白毫を勸むるは何の證據有りや。答。其の證甚だ多し。略して一兩を出さん。『觀經』に云く。「無量壽佛を觀ぜん者は、一の相好より入れ。但眉間の白毫を觀じて、極めて明了ならしめよ。眉間の白毫を見たてまつれば、八万四千の相好、自然に當に見るべし」と。又『觀佛經』(卷二)に云く。「如來に无量の相好有りて、一一の相の中に、八万四千の諸の小相好あり。是の如きの相好は、白毫の少分の功德にも及ばず。是の故に今日、來世の諸の惡衆生の爲に、白毫相の大惠の光明の惡を消す觀法を説く。若し邪見極重の惡人有りて、此の觀法は相貌を具足すと聞きて、瞋恨の心を生ずといはば、是の處有ること無けん。縱使ひ瞋を生ずとも白毫相の光は亦復覆護せん。暫くも是の語を聞かば、三劫の罪を除き、後身の生處は、諸佛の前に生ぜん。是の如き種種百千億種の諸の光明を觀る微妙の境界は、悉く説くべからず。白毫を念ずる時、自然に當に生ずべし」と。