又(觀佛經卷九)云く。「麁心もて像を觀ずるすら尚是の如き无量の功德を得。況や復念を繋けて佛の眉間の白毫相の光を觀ぜんをや」と。又(觀佛經卷九)云く。「釋迦文佛、行者の前に現じて、告げて言はく。汝觀佛三昧力を修す。故に我涅槃相の力を以て、汝に色身を示して、汝をして諦かに觀ぜしむ。汝今坐禪するも、多く觀ずることを得ず。汝より後の世の人、多く諸の惡を作せば、但眉間の白毫相の光を觀ぜよ。此の觀を作す時、見ん所の境界は上の所説の如し」と。已上略抄 上の所説とは、佛の種種の境界を見るなり。諸の餘の利益は、下の別時の行及び利益門に至りて應に知るべし。 問。白毫の一相を觀ずるをも、亦三昧と名くるや。答。爾なり。故に『觀佛經』の第九に云く。「若し能く心を繋けなば一の毛孔を觀ずるをも、是の人を名けて念佛定を行ずと爲す。佛を念ずるを以ての故に、十方の諸佛常に其の前に立ちて、爲に正法を説きたまふ。此の人は即ち能く三世の諸の如來の種を生ずと爲す。何に況や具足して佛の色身を念ぜんをや」と。 問。何が故ぞ淨土の莊嚴を觀ぜざるや。答。今は廣き行に堪へざる者の爲に、唯略觀のみを勸むるなり。若し觀ぜんと欲ふ者は、應に『觀經』を讀むべし。何に況や前に十種の事を明せり。即ち是淨土の莊嚴なり。 問。何が故ぞ觀音・勢至を觀ぜざるや。答。略の故に述べず、佛を念じて已りて後は、應に二菩薩を觀ずべし。或は名號を稱へよ。多少は意に隨へ。
[四、正修念佛 回向門]
第五に廻向門を明かさば、五義具足するもの、是眞の廻向なり。一には三世の一切の善根を聚集す。『華嚴經』意 二には薩婆若心と相應す。三には此の善根を以て一切の衆生と共にす。四には無上菩提に廻向す。五には能施・所施・施物皆不可得なりと觀じて、能く諸法の實相と和合せしむるなり。『大論』意 此等の義に依て、心に念ひ口に言ひ、修する所の功德と、及以び三際の一切善根とを、其一 自他法界の一切衆生に廻向して、平等に利益し、其二 滅罪生善して共に極樂に生じて、普賢の行願を速疾に圓滿し、