又『菩薩處胎經』(卷六)の偈に云く。「彼の犯罪人の鉢に滿てる油を擎持して、若し油の一渧を棄てなば罪大僻に交入せん、左右に伎樂を作せども死せんことを懼れて顧視せざるが如し。菩薩の淨觀を修するには意を執ること金剛の如く、毀譽及び惱亂に心意傾動せず。空は本來淨にして彼・此・中間も无しと解る」と。二には通じて四句を用て、一切の煩惱の根源を推求せよ。謂く此の煩惱は心に由て生ずとや爲ん、縁に由て生ずとや爲ん。共に生ずとや爲ん、離生すとや爲ん。若し心に由て生ぜば、更に縁を待たず。或は龜毛・兔角に於ても應に貪・瞋を生ずべし。若し縁に由て生ぜば、應に心を用ひざるべし。或は眠れる人をして煩惱を生ぜしめん。若し共に生ぜば、共ならざるとき各々无くして、共なる時に安んぞ有らん。譬へば二の沙の合すと雖も油無きが如し。或は心境倶に合するに那ぞ煩惱を生ぜざる時有らん。若し離れて生せば既に心を離れ縁を離る、那ぞ忽に煩惱を生ぜん。或は虚空は二を離る、常に應に煩惱を生ずべし。種種に觀察するに、既に實の生无し。從りて來る所も无く、亦去る所も无し。内に非ず外に非ず、亦中間にも非ず。都て處所无く、皆幻有の如し、唯惑心のみに非ず、觀心も亦爾なり。是の如く推求せば惑心自ら滅しなん。故に『心地觀經』(卷八)の偈に云く。「是の如き心法は本より有に非ず。凡夫執迷して無に非ずと謂へり。若し能く心の躰性の空なることを觀ずれば、惑障生ぜずして便ち解脱す」と。云云 又『中論』の第一の偈に云く。「諸法は自より生ぜず、亦他よりも生ぜず。共にあらず無因にあらず。是の故に无生なりと知る」と。應に此の偈に依て多くの四句を用ふべし。三には應に念ずべし。今我が惑心に具足せる八万四千の塵勞門と、彼の彌陀佛の具足したまへる八萬四千の波羅蜜門とは、本來空寂にして一躰無碍なり。貪欲は即ち是道なり。恚・癡も亦是の如し。水と氷との性の異なる處に非ざるが如し。故に『經』に云く。「煩惱と菩提とは軆二無く、生死と涅槃とは異處に非ず」と云云。我今未だ智火の分有らず、故に煩惱の氷を解きて功德の水と成すこと能はず。