感和尚釋して(群疑論卷七)云く。「四義を以ての故に、火車に非ざることを知る。一には行を以てし、二には相を以てし、三には語を以てし、四には佛を以てす。此の四の義火華に異なり。一に行を以てすとは、觀佛三昧經には罪人罪を造り、四重禁を犯して、乃至所親を毀辱すと説けども、悔過を生ぜず、善友の敎へて念佛せしむるに遇はざるが故に、所見の華は是地獄の相なり。今此の下品等の三人は、復生れしより來罪を造ると雖も、終る時善知識に遇ひて至心に佛を念ず。佛を念ずるを以ての故に、多劫の罪を滅し、勝功德を成じて寶池の中の花の來り迎ふことを感得す。豈前の花に同じからんや。二に相とは、彼の經には風刀身を解くに、偃臥定まらず、楚撻を被むるが如し。其の心荒越にして狂癡の想を發す、己が室宅を見れば、男女・大小の一切は皆是不淨の物なり、屎尿の臭き處にして外に盈流せりと説けども。今此は佛を念じて身心安穩にして、惡想都て滅す。唯聖衆を見、異香有るを聞く、故に類せざるなり。三に語とは、彼の經の中には地獄の痛聲は詠歌の音の如し、罪人聞き已りて、此の如き好き處に吾當に中に遊ぶべしと説けども、觀經の中には言讃して、善男子、汝佛の名を稱するが故に、諸の罪消滅し、我來りて汝を迎ふと。彼は是詠歌の音なるも、此は滅罪を陳ぶる語なり。二音既に別なるが故に同じからざるなり。四に佛とは、彼經に一切の火焰は化して玉女と爲る。罪人遙かに見て心に歡喜を生じ、我中に往かんと欲すと。金車に坐し已りて、玉女を顧み瞻れば、皆鐵の斧を捉りて其の身を折り截ると。觀經に爾の時に彼の佛即ち化佛・化觀世音・化大勢至を遣はして、行者の前に至らしめたまふと言へり。此の四の義を以て准知す、蓮華の來迎は觀佛三昧經の説に同じからずといふことを」。已上 看病の人は、能く此の相を了へ、數々病者の所有諸の事を問ひ、前の行儀に依て種種に敎化せよ。