『華嚴』(唐譯卷五)の偈に云ふが如し。「往昔に勤修すること多劫海にして、能く衆生の深重の障を轉ず。故に能く身を分ちて、十方に遍じ、悉く菩提樹王の下に現じたまふ」と。
[一〇、問答料簡 往生階位]
第二に往生の階位とは、 問。『瑜伽論』(卷七九意)に云く。「三地の菩薩は、方に淨土に生ず」と。今地前の凡夫・聲聞を勸むるは何の意か有るや。答。淨土に差別あり。故に過有ること无し。感師の釋(群疑論卷二意)して云へるが如し。「諸の經論の文に淨土に生ずることを説くは、各々一の義に據れり、淨土既に麄妙・勝劣有れば、生を得るにも亦上下階降有り」と。又道宣律德(法苑珠林卷一六)の云く。「三地の菩薩、始めて報佛の淨土を見る」と。 問。設ひ報土に非ずとも、惑業重き者、豈淨土を得んや。答。天台(維摩經略疏卷一意)の云く。「无量壽國は、果報殊勝なりと雖も、臨終の時懺悔し念佛すれば、業障便ち轉じて即ち往生することを得。惑染を具すと雖も、願力を心に持てば亦居することを得るなり」と。 問。若し凡夫も許さば亦往生することを得と、『彌勒問經』は如何が通會せん。『經』(彌勒問經)に云く。「佛を念ずとは凡愚の念に非ず。結使を雜へずして、彌陀佛の國に生ずることを得」と。答。『西方要決』に釋して云く。「娑婆は苦なりと知りて永く染界を辭するは、薄淺に非ず。汎く當來に作佛して意專ら廣く法界の衆生を度せんとす。斯の勝解有るが故に愚に非ざるなり。正念の時、結使眠伏するが故に結使の念を雜へずと言ふなり」と。略抄 意の云く。凡夫の行人は此の德を具すと。 問。彼の國の衆生は皆退轉せず。明らかに知んぬ、是凡夫の生るる處に非ざることを。答。言ふ所の不退とは、必ずしも是聖の德に非ず。『要決』に云ふが如し。「今不退を明さば其の四種有り。十住毗婆娑に云く。一には位不退。即ち因を修すること万劫なるも復惡律儀の行に退墮して生死に流轉せず。二には行不退、已に初地を得れば利他の行退せず。三には念不退。八地已去は无功用にして、意に自在を得るが故に。四には處不退。