若しは行若しは坐、一切の時處に皆佛を念ずること得て諸務を妨げず。乃至命終にも亦其の行を成ず」と。已上 問。有相と无相との業は倶に往生することを得るや。答。綽和尚(安樂集卷上)云く。「若し始覺の者は、未だ相を破すること能はず、但能く相に依て專至せば、往生せずといふこと无し。疑ふべからざるなり」と。又感和尚(群疑論卷一)云く。「往生既に品類差殊なれば、修因にも亦淺深有りて各別なり。但唯无所得を修して往生することを得、有所得の心は生ずることを得ずと言ふべからざるなり」と。 問。若し爾らば如何ぞ、『佛藏經』(卷上意)には「若し比丘有りて餘の比丘を敎へて、汝當に佛を念じ法を念じ僧を念じ戒を念じ施を念じ天を念ずべし。是の如き等の思惟もて涅槃の安樂寂滅なるを觀じ、唯涅槃の畢竟淸淨なることを愛せよと。是の如く敎ふる者を名けて邪敎と爲し、惡知識と名く。是の人を名けて我を誹謗し外道を助くと爲す。是の如きの惡人は、我乃ち一飮の水をも受くることを聽さず」と説き、又(佛藏經卷上)「寧ろ五逆重惡を成熟すとも、我見・衆生見・壽見・命見・陰入界見等をば成就せざれ」と言へるや。已上略抄 答。感師釋して(群疑論卷五意)云く。「聖敎有りて復言く。寧ろ我見を起こすこと須彌山の如くすとも、空見を起すこと芥子許りの如くもせざれと。是の如き等の諸の大乘經には、有を訶し空を訶し、大を讃じて小を讃むること、並に乃ち機に逗じて同じからざるなり。又有る經に言く。今者阿彌陀如來・應・正等覺は、具に是の如き卅二相・八十隨形好有り。身色光明は聚金の融けたるが如し。是の如く乃至彼の如來を念ぜず、亦彼の如來を得ざれ。已に是の如くの次第に空三昧を得んと。又觀佛三昧經に云く。如來に亦法身・十力・无畏・三昧・解脱の諸の神通の事有り。此の如きの妙處は、汝凡夫の所覺の境界に非ず、但當に深く心に隨喜の想を起すべし。是の想を起し已りて、當に復念を繋けて佛の功德を念ずべし。故に知んぬ、初學の輩は彼の色身を觀じ、後學の徒は法身を念ずるなり。故に是の如くして次第に空三昧を得んと言へり。