當に須く善く經の意を會して、毀讃の心を生すこと勿れ。妙に知る、大聖は巧に根機に逗じたまふ者なることを」と。已上『觀佛經』の第九に、佛の一毛を觀じ、乃至具足の色身を觀ずと説く。已に引く所の十力・无畏・三昧等の文有るなり  問。念佛の行は九品の中に於て是何れの品の攝なるや。答。若し説の如く行ぜば、理、上上品に當れり。是の如く其の勝劣に隨ひて應に九品を分つべし。然るに經に説く所の九品の行業は、是一端を示せるのみ。理實には无量なり。 問。如し定散倶に往生することを得と爲ば、亦現身に倶に佛を見たてまつると爲ん。答。經論に多く三昧成就して即ち佛を見たてまつることを得と説けり。明かに知んぬ、散業は見たてまつることを得べからざるを。唯別縁をば除く。 問。有相と无相との觀は、倶に佛を見たてまつることを得るや。答。无相の佛を見たてまつるは理疑はざるに在り。其の有相の觀も、或は亦佛を見たてまつる。故に『觀經』等に色相を觀ずることを勸めたり。 問。若し有相の觀も亦佛を見たてまつれば、云何ぞ『華嚴經』の偈(唐譯卷一六)には「凡夫の諸法を見るは但相に隨ひて轉じ、法の无相を了らず、是を以て佛を見たてまつらざるなり。 見有れば則ち垢と爲る、此れ則ち未だ見と爲さず、諸見を遠離し、是の如くして乃ち佛を見たてまつる」と云ひ、又(唐譯華嚴經卷一六)「一切の法は自性所有无しと了知し、是の如く法性を解れば即ち盧舍那を見たてまつる」と云ひ、『金剛經』には「若し色を以て我を見、音聲を以て我を求めば、是の人は邪道を行じて、如來を見たてまつること能はず」と云へるや。答。『要決』に通じて云く。「大師の説敎は、義に多門あり、各々時機に稱ひ、等しくして差異无し。般若經は自ら是一門にして、彌陀等の經も復一理と爲す。何となれば一切の諸佛には並びに三身有り、法佛には形躰无く色聲もなし。 良に二乘及び小菩薩の、三身異ならずと説くを聞きて、即ち同じく色聲有りと謂ひ、但化身の色相のみを見て、遂に法身も亦爾なりと執せんが爲す。 故に説きて邪なりと爲す。彌陀經等に、佛の名を念じ相を觀じて淨土に生ぜんことを求めよと勸むるは、但凡夫は障重ければ、法身は幽微にして、法躰縁じ難きを以て、且く佛を念じ形を觀じて禮讃せよと敎へたるなり」と。略抄  問。凡夫の行者は、