勤めて修習すと雖も心純淨ならず、何ぞ輙く佛を見たてまつらん。答。衆縁合して見たてまつるなり、唯自力のみには非ず。『般若經』に三縁有り、上の九十日の行に引きし所の『止觀』の文の如し。 問。幾の因縁を以てか彼の國に生ずることを得る。答。經に依て之を案ずるに、四の因縁を具せり。一には自善根の因力、二には自願求の因力、三には彌陀本願の縁、四には衆聖助念の縁なり。釋迦の護助は『平等覺經』に出で、六方佛の念は『小經』に出で、山海慧菩薩等の護持は『十往生經』に出でたりと云ふ
[一〇、問答料簡 臨終念相]
第五に臨終の念相を明さば、 問。下下品の人も、臨終に十念せば即ち往生することを得。言ふ所の十念とは何等の念ぞや。答。綽和尚(安樂集卷上)の云く。「但阿彌陀佛を憶念して、若しは總相若しは別相、所縁に隨ひて觀じ、十念を逕て、他の念想の間雜すること无き、是を十念と名く。又十念相續と云ふは、是聖者の一の數の名のみ。但能く念を積み思を凝らして他事を縁ぜざれば、便ち業道成辨す。亦未だ勞はしく之が頭數を記せず。又云く。若し久行の人の念は、多く此に依るべし。若し始行の人の念は、數を記する亦好し。此れ亦聖敎に依るなり」と。已上 有(極樂淨土九品往生義)が云く。「一心に南无阿彌陀佛と稱念し、此の六字を逕る項を一念と名くるなり」と。 問。『彌勒所問經』の十念往生は彼の一一の念深廣なり、如何ぞ今十聲佛を念じて往生することを得と云ふや。答。諸師の釋する所不同なり。寂法師(九品往生義所引)云く。「此は專心に佛の名を稱する時、自然に是の如き十を具足すと説くなり。必ずしも一一に別に慈等を縁ずるには非ず、亦彼の慈等を數へて十と爲るにも非ず。云何ぞ別に縁ぜざるに、而も十を具足するとならば、戒を受けんと欲して三歸を稱ふる時、別に離殺等の事を縁ぜずと雖も、而も能く具に離殺等の戒を得るが如し。當に知るべし、此の中の道理も亦爾なり。又十念を具足して南无阿彌陀佛と稱念すべしといふは、謂く能く慈等の十念を具足して、南无佛と稱するなり。