三賢に入る」と。
私に云く。「少善根福德の因縁を以て、彼の國に生ずることを得べからず」といふは、諸餘の雜行は彼の國に生じ難し。故に「隨縁の雜善恐らくは生じ難し」と云ふ。「少善根」といふは、多善根に對する言なり。然れば則ち雜善は是少善根なり、念佛は是多善根なり。故に『龍舒淨土文』(卷一)に云く。「襄陽の石に刻れる阿彌陀經は、乃ち隋の陳仁稜が書ける所なり。字畫淸婉にして、人多く慕ひ玩ぶ。一心不亂より下に、專持名號、以稱名故、諸罪消滅、即是多善根福德因縁と云へり。今世に傳ふる本に此の二十一字を脱す」と。已上 啻に多少の義有るのみに非ず、亦大小の義有り、謂く雜善は是小善根なり、念佛は是大善根なり。亦勝劣の義有り、謂く雜善は是劣善根なり、念佛は是勝善根なり。其の義應に知るべし。
[一四、證誠章]
六方恆沙の諸佛、餘行を證誠せず、唯念佛を證誠したまふの文
善導の『觀念法門』に云く。「又彌陀經に云ふが如し。六方に各々恒河沙等の諸佛有まして、皆舌を舒べて徧く三千世界に覆ひて、誠實の言を説きたまふ。若しは佛の在世、若しは佛滅後の、一切造罪の凡夫、但廻心して阿彌陀佛を念じて、淨土に生ぜんと願ずれば、上百年を盡くし、下七日・一日、十聲・三聲・一聲等に至るまで、命終らんと欲する時、佛聖衆と自ら來り迎接して、即ち往生を得しむ。上の六方等の佛の舒舌の如く、定んで凡夫の爲に證を作したまふ、罪滅して生を得と。若し斯の證に依て生ずることを得ずば、六方の諸佛の舒舌、一び口より出でて已後、終に口に還り入らずして、自然に壞爛せん」と。