又人佛の名號を聞て无上道心を發とも惡の因縁に遇て退して聲聞・辟支佛地に入る者有り。是の如き等の空過の者の退沒の者の有り。是の故に願じて言たまはく。「我れ成佛せむ時、われに値遇せむ者の、皆速疾に无上大寶を滿足せしめむと。是の故に「觀佛本願力遇无空過者能令速滿足功德大寶海」と言たまふ。住持の義は上の如し。佛の莊嚴八種の功德を觀ずること之れ上に訖りぬ。
 
次に安樂國の諸大菩薩の四種の莊嚴功德成就を觀ぜよ。 問曰。如來の莊嚴功德を觀ずるに、何の闕少せる所ありてか復須く菩薩の功德を觀ずべきや。答曰。明君有すときんば則ち賢臣有るが如し。堯舜の无爲と稱せし、是れ其の比なり。若し但如來法王有ませども大菩薩の法臣无からしめば、道を翼讃するに於て豈に滿つと言はむに足らむや。又薪を積みて小なきときんば則ち火大きならざるが如し。『經』(大經卷下意)に言ふが如し。阿彌陀佛國に无量无邊の諸大菩薩有り。觀世音大勢至等の如き。皆當に一生に他方に於て次いで佛處に補すべし。若し人名を稱して憶念する者の、歸依する者の、觀察する者の、『法花經』の「普門品」に説くが如く、願として滿ざること无し。然に菩薩の功德を愛樂することは、海の流を呑むで止足の情无きが如し。亦釋迦牟尼如來、一の目闇の比丘の吁へて言うすを聞しめすが如し。誰れか功德を愛して我維針爲らむ。爾の時に如來禪定より起ち、其の所に來到して語りて言まはく。我れ福德を愛す遂に其れ維針と爲らむと。爾の時に失明比丘、暗に佛語の聲を聞て驚喜交はり集まりて佛に白して言ふさく。世尊、世尊の功德は猶未だ滿たずやと。佛報へて言はく。我が功德は圓滿せり、復た須つべき所无し。但我が此の身は功德より生ず。功德の恩分を知るが故に、是の故に愛すと言ふ。問ふ所の如く佛の功德を觀ずるに、實に願として充たざるは无し。復た諸菩薩の功德を觀ずる所以は、