答曰。汝謂五逆・十惡の繋業等を重と爲し、下下品の人の十念を以て輕と爲して、罪の爲に牽かれて先づ地獄に墮て三界に繋在べくば、今當に義を以て輕重の義を校量すべし。心に在り、縁に在り、決定に在り、時節の久近多少には在らざるなり。云何が心に在る、彼の造罪の人は自ら虚妄顛倒の見に依止して生ず。此の十念は善知識方便安慰して實相の法を聞くに依て生ず。一は實なり一は虚なり、豈に相ひ比ぶることを得むや。譬ば千歳の闇室に光若し蹔く至ば、即便明朗なるが如し。闇豈に室に在ること千歳にして去らじと言ふことを得むや。是を在心と名く。云何が縁に在る、彼の造罪の人は自ら妄想の心に依止し煩惱虚妄の果報の衆生に依て生ず。此の十念は无上の信心に依止し、阿彌陀如來の方便莊嚴眞實淸淨无量の功德の名號に依て生ず。譬ば人有りて毒の箭を被ふて中る所筋を截り骨を破るに、滅除藥の鼓を聞けば即ち箭出で毒除こるが如し、 『首楞嚴經』(卷上意)に言たまはく。譬ば藥有り名て滅除と曰ふ。若し鬪戰の時用て以て鼓に塗るを、鼓の聲を聞けば箭出で毒除るが如し。菩薩摩訶薩亦是の如し。首楞嚴三昧に住して其の名を聞けば三毒の箭自然に拔出すと 豈に彼の箭深く毒厲しくして鼓の音聲を聞くとも箭を拔き毒を去ることを能はじと言ふことを得べけんや。是を在縁と名く。云何が決定に在る、彼の造罪人は有後心・有間心に依止して生ず。此の十念は无後心・无間心に依止して生ず。是を決定と名く。三の義を挍量するに十念は重し、重き者の先づ牽きて能く三有を出づ。兩經一義なるのみと。 問曰。幾の時をか名て一念と爲するや。答曰。百一の生滅を一刹那と名く、六十の刹那を名て一念と爲す。此の中に念と云ふは、此の時節を取らざるなり。但言ふこころは阿彌陀佛の若は捴相若しは別相を憶念して、所觀の縁に隨て心に他想无くして十念相續するを名て十念と爲す。但名號を稱すも亦復是の如し。 問曰。心若し他縁せば之を攝して還らしめて念の多少を知ぬべし。但多少を知るとも復无間には非ず。