何等か五念門。一には禮拜門、二には讃嘆門、三には作願門、四には觀察門、五には廻向門なり。「門」は入出の義なり、人、門を得れば則ち入出无碍なるが如し。前の四念は是れ安樂淨土に入る門なり、後の一念は是れ慈悲敎化に出る門なり。
云何なるか禮拜、身業をして阿彌陀如來應正遍知を禮拜したまひき。諸佛如來の德に无量有り、德无量なるが故に德號亦无量なり。若し具に談ぜむと欲せば、紙筆に載すること能はず。是を以て諸經に、或は十名を擧げ、或は三號を騰げたり、盖し至宗を存すならくのみと、豈に此れ盡さむや。言ふ所の三号は、即ち此れ如來と應と正遍知なり。「如來」は、法相の如く解り、法相の如く説き、諸佛の安穩道より來るが如く、此の佛も亦是の如く來て、更後有の中に去らず。故に如來と名く。「應」は應供なり。佛は結使除盡して一切智慧を得て、一切の天地の衆生の供養を受くに應ぜり、故に應と曰ふなり。「正遍知」は、一切諸法實に不壞の相にして不增不減なりと知る。云何が不壞なる、心行處滅して言語道過せり、諸法は涅槃の相の不動なる如し。故に正遍知と名く。无碍光の義は前の偈の中に解するが如し。
彼の國に生ぜむ意を爲させむが故なり。何が故にか此を言ふとなれば、菩薩の法は、常に晝三時夜三時を以て十方一切諸佛を礼す、必ず願生の意有らず。いま常に願生の意を作すべきが故に、阿彌陀如來を礼したてまつれとなり。
云何なるか讃嘆する、口業をして讃嘆したまひき。