禁腫の辞に云ふが如く、「日出東方乍赤乍黄」等の句なり。假使ひ酉亥に禁を行じて日出に關らざれども、腫、差ることを得。亦師に行くに陣に對かふて、但一切の齒の中に「臨兵鬪者皆陣列在前行」と誦するが如し。此の九字を誦するに、五兵の中らざる所なり。抱朴子、之を要道と謂ふ者なり。又轉筋を苦しむに、木瓜を以て火に對て之を慰のすに則ち愈へぬ。復人有りて、但木瓜の名を呼ぶに亦愈へぬ、吾が身に其の効しを得るなり。斯の如きの近事世間に共に知れり、況や不可思議の境界なる者をや。滅除藥を鼓に塗る喩、復是れ一事なり。此の喩は已に前に彰す、故に重ねて引かず。名の法に異する有りといふは、指の日を指す等の名の如きなり。
云何が作願する、心に常に作願したまへりき、一心に專念して畢竟じて安樂國土に往生して、實の如く奢摩他を修行せむと欲ふが故にのたまへり。
「奢摩他」を譯して止と曰ふ。止は心を一處に止めて惡を作さざるなり。此の譯名は大意に乖かざれども義に於て未だ滿たず。何を以て之を言ふとならば、心を鼻端に止むるが如きをも亦名けて止と爲す。不淨觀の貪を止め、慈悲觀の瞋を止め、因縁觀の癡を止む、是の如き等をも亦名けて止と爲す。人の将に行かんとして行かざるをも、亦また名けて止と爲す。是に知ぬ止の語は浮漫にして正しく奢摩他の名を得ず。椿・柘・楡・柳の如きを皆木と名くと雖も、若し但木と云ふときは焉んぞ楡・柳を得んや。奢摩他を止と云ふは、て三の義有るべし。一には一心に專ら阿彌陀如來を念じて彼の土に生と願れば、此の如來の名号及び彼の國土の名号、能く一切の惡を止む。二には彼の安樂土は三界の道に過たり、若し人亦彼の國に生ずれば、自然に身口意の惡を止む。三には阿彌陀如來正覺住持の力をして、自然に聲聞・辟支佛を求むる心を止む。此の三種の止は、如來如實の功德より生ず。この故に「欲如實修行奢摩他故」と言たまへり。