云何が觀察する、智慧をして觀察したまへりき、正念に彼を觀ずることは、實の如く毗婆舍那を修行せむと欲ふが故なりと。
「毗婆舍那」を譯して觀と曰ふ、但汎く觀と言には、義亦未だ滿たず。何を以て之を言ふとならば、身の无常・苦・空・无我・九想等を觀ずるが如きをも、皆名けて觀と爲す、亦上の木の如き椿・柘を得ざるなり。毗婆舍那を觀と云ふは、亦二の義有り。一には此に在りて想を作て彼の三種の莊嚴功德を觀ずれば、此の功德如實なるが故に、修行すれば亦如實の功德を得。如實の功德は決定して彼の土に生を得るなり。二には亦彼の淨土に生を得れば、即ち阿彌陀佛を見たてまつる。未證淨心の菩薩、畢竟じて平等法身を得證す。淨心の菩薩と上地の菩薩と、畢竟じて同く寂滅平等を得、是の故に「欲如實修行毗婆奢那故」と言たまへり。
彼の觀察に三種有り。何等か三種。一には彼の佛國土の莊嚴功德を觀察す、二には阿彌陀佛の莊嚴功德を觀察す、三には彼の諸菩薩の莊嚴功德を觀察す。
心に其の事を縁ずるを「觀」と曰ふ。觀心分明なるを「察」と曰ふ。
云何が廻向する、一切苦惱の衆生を捨てずして、心に常に作願、廻向を首と爲して大悲心を成就することを得たまへるが故にと。
廻向に二種の相有り。一には往相、二には還相なり。往相は、己れが功德を以て一切衆生に廻施して、作願して共に彼の阿彌陀如來の安樂淨土に往生せしめむとなり。還相は、彼の土に生じを已りて、奢摩他毗婆舍那方便力成就することを得て、