其の所應に隨て聞かざる者莫し、或は佛の聲を聞き、或は法の聲を聞き、或は僧の聲を聞き、或は寂靜の聲・空无我の聲・大慈悲の聲・波羅蜜の聲を聞き、或は十力・无畏・不共法の聲・諸通慧の聲・无所作の聲・不起滅の聲・无生忍の聲、乃至甘露・灌頂、衆の妙法の聲を聞く。是の如き等の聲、其の所聞に稱うて歡喜无量なり。淸淨・離欲・寂滅・眞實の義に隨順し、三寶・力・无所畏・不共の法に隨順す、通慧菩薩・聲聞所行の道に隨順す。三塗苦難の名有ること无し、但自然快樂の音有り、是の故に其の國を名て安樂と曰ふ」。此の水佛事を爲す、安んぞ思議すべきや。
莊嚴地功德成就とは、偈に宮殿諸樓閣觀十方無碍雜樹異光色寶欄遍圍繞と言へるが故にと。
此れ云何ぞ不思議なる、彼の種種の事、或は一寶・十寶・百寶・无量寶、心に隨ひ意に稱ふて此の莊嚴の事を莊嚴し具足せり。淨明鏡の如く十方國土の淨穢の諸相、善惡の業縁、一切悉く彼の中の人天を現ず。斯の事を見るが故に稱湯及ばず情自然に成就す。亦諸大菩薩、以て法性等の寶を照て冠と爲すれば、此の寶冠の中に皆諸佛を見たてまつり、又一切諸法の性を了達するが如し。又佛『法華經』を説きたまふし時、眉間の光を放て、東方万八千土を照らすに、皆金色の如し、阿鼻獄より上、有頂に至るまで、諸の世界の中の六道の衆生生死の所趣、善惡業縁、受報の好醜、此に悉く見るが如し。蓋し斯の類なり。此の影佛事を爲す、安んぞ思議すべきや。