是を入第三門と名く。
寂靜止を修せむ爲の故に、一心に彼の國に生と願ず、是れ第三の功德相なり。
入第四門とは、彼の妙莊嚴を專念し觀察して毗婆舍那を修するを以ての故に、彼の處に到ることを得て種種の法味樂を受用す。是を入第四門と名く。
「種種の法味樂」といふは、毗婆舍那の中に觀佛國土淸淨味・攝受衆生大乘味・畢竟住持不虚作味・類事起行願取佛土味有り。是の如き等の无量莊嚴佛道の味有るが故に種種と言ふ。是は第四の門功德相なり。
出第五門といふは、大慈悲を以て一切苦惱の衆生を觀察して、應化身を示して、生死の園煩惱の林の中に廻入して、神通に遊戲し敎化地に至る、本願力の廻向を以ての故に、是を出第五門と名く。
「示應化身」といふは、『法華經』の普門示現の類の如し。遊戲に二の義有り。一には自在の義、菩薩衆生を度することは譬ば師子の鹿を搏つに爲す所難からざるが如し、遊戲の如し。二には度无所度の義なり、菩薩衆生は畢竟じて所有无しと觀じて、无量の衆生を度すと雖も實に一衆生として滅度を得る者无し、度衆生を示すこと遊戲の如し。「本願力」とは、大菩薩法身の中に於て常に三昧に在して種種の身・種種の神通・種種の説法を現ずることを示す。皆本願力を以て起すなり。譬ば阿修羅の琴の鼓する者の无と雖も音曲自然なるが如し。是を敎化地の第五の功德相と名く。