善い哉善い哉、汝一び佛を禮するを以ての故に無數の諸佛に値ふことを得たり。何に況や未來の我が諸の弟子、懃ろに佛を觀ずん者、懃ろに佛を念ぜん者をやと。佛阿難に敕したまはく。汝文殊師利の語を持ちて徧く大衆及び未來世の衆生に告げよ。若しは能く佛を禮せん者、若しは能く佛を念ぜん者、若しは能く佛を觀ぜん者は、當に知るべし、此の人は文殊師利と等しくして異有ること無し。身を捨てて他世に文殊師利等の諸の菩薩其の和上と爲ると。此の文を以て證す。故に知んぬ、淨土は相土に該通す、往生せんこと謬らず。若し無相離念を體と爲すと知りて、而も縁中求住する者は多く應に上輩の生なるべし。是の故に天親菩薩の『論』(論註卷下意)に云く。「若し能く二十九種の莊嚴淸淨を觀ずれば即ち略して一法句に入る。一法句とは謂く淸淨句なり。淸淨句とは即ち是智慧無爲法身なるが故にと。何が故に廣略相入を須ふるとならば、但諸佛・菩薩に二種の法身有ます。一には法性法身、二には方便法身なり。法性法身に由るが故に方便法身を生ず、方便法身に由るが故に法性法身を顯出す。此の二種の法身は異にして分つべからず、一にして同ずべからず。是の故に廣略相入す。菩薩若し廣略相入を知らずば則ち自利利他すること能はず。無爲法身とは即ち法性身なり。法性寂滅なるが故に即ち法身は無相なり。法身無相なるが故に則ち能く相ならざること無し。是の故に相好莊嚴即ち是法身なり。法身無知なるが故に則ち能く知らざること無し。是の故に一切種智は即ち是眞實の智慧なり。縁に就て總別二句を觀ずることを知ると雖も實相に非ざること莫きなり。實相を知るを以ての故に即ち三界の衆生の虚妄の相を知るなり。三界の衆生の虚妄を知るを以ての故に即ち眞實の慈悲を起すなり。眞實の慈悲を知るを以ての故に即ち眞實の歸依を起すとなり」と。今の行者緇素を問ふこと無く、但能く生・無生を知りて二諦に違はざる者は多く應に上輩生に落在すべし。