故に之を以て相對す。已下の九惡九善は、下の九品の中に至りて、次で廣く述ぶべし。此れ世善を明す。又慈下の行と名く。二に「受持三歸」と言ふは、此れ世善は輕微にして、感報具ならず、戒德は巍巍として、能く菩提の果を感ずることを明す。但衆生の歸信は淺より深に至る、先づ三歸を受けしめて後に衆戒を敎ふるなり。「具足衆戒」と言ふは、然るに戒に多種有り。或は三歸戒、或は五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒・沙彌戒、或は菩薩の三聚戒・十無盡戒等なり。故に具足衆戒と名く。又一一の戒品の中に、亦少分戒・多分戒・全分戒有り。「不犯威儀」と言ふは、此れ身口意業、行住坐臥に、能く一切の戒の與に方便の威儀を作すことを明す。若しは輕重麤、細皆能く獲持して、犯せば即ち悔過す。故に「不犯威儀」と云ふ、此を戒善と名く。三に「發菩提心」と言ふは、此れ衆生の欣心大に趣くことを明す。淺く小因を發すべからず、廣く弘心を發すに非ざるよりは、何ぞ能く菩提と相會することを得ん。唯願はくは我が身、身は虚空に同じく心は法界に齊しく、衆生の性を盡さん。我身業を以て恭敬し供養し禮拜して、來去を迎送し、運度して盡くさしめん。又我口業を以て讚歎し説法して、皆我が化を受けしめ、言下に道を得ん者をして盡さしめん。又我意業を以て、入定觀察し、身を法界に分け、機に應じて度し、一として盡さざること無けん。我此の願を發す、運運增長して猶し虚空の如く、處として遍せざること無く、行流無盡にして後際を徹窮し、身に疲倦無く、心に厭足無からん。又「菩提」と言ふは即ち是佛果の名なり。又「心」と言ふは即ち是衆生能求の心なり。故に「發菩提心」と云ふ。四に「深信因果」と言ふは、即ち其の二有り。一には世間の苦樂の因果を明す。若し苦の因を作れば即ち苦の果を感じ、若し樂の因を作れば即ち樂の果を感ず。印を以て泥に印するに、印壞れて文成るが如以し。