三に「是爲」より下は、總じて結す。
四に「佛告阿難」より下「説是觀地法」に至る已來は、正しく流通を勸發して縁に隨ひて廣く説かしむることを明す。即ち其の四有り。一には告命を明す。二には佛語を勸持して、廣く未來の大衆の爲に、前の觀地の益を説かしむることを明す。三には機を簡びて受くるに堪へ信ずるに堪へて、此の娑婆生死の身の八苦・五苦・三惡道の苦等を捨つることを得んと欲して、聞きて即ち信行せん者、身命を惜まざらんには、急に爲に之を説くべきことを明す。若し一人をだも苦を捨てて生死を出づることを得しむれば、是を眞に佛恩を報ずと名く。何を以ての故に。諸佛世に出で種種の方便もて、衆生を勸化したまふは、直惡を制し福を修して、人天の樂を受けしめんと欲するにあらず。人天の樂は猶電光の如し。須臾にして即ち捨てて、還て三惡に入りて、長時に苦を受く。此の因縁の爲に、但勸めて即ち淨土に生ずることを求めて、無上菩提に向かはしめたまふ。是の故に今の時の有縁、相勸めて誓ひて淨土に生ぜしむるは、即ち諸佛本願の意に稱ふ。若し信行することを樂はざる者は、『淸淨覺經』(卷四意)に云ふが如し。「若し人有りて淨土の法門を説くを聞きて、聞けども聞かざるが如く、見れども見ざるが如くなる、當に知るべし此等は始めて三惡道より來りて、罪障未だ盡きず、此が爲に信向無きのみ。佛言はく、我説くらく此の人は未だ解脱を得べからず」と。此の『經』(平等覺經卷四・大阿彌陀經卷下・大經卷下意)に又云く。「若し人淨土の法門を説くを聞きて、聞きて即ち悲喜交はり流れ、身の毛竪つことを爲す者、當に知るべし此の人は過去に已に曾て此の法を修習して、今重ねて聞くことを得て、即ち歡喜を生じ、正念に修行して、必ず生ずることを得るなり」と。四には正しく敎へて寶地を觀じて以て心を住せしむることを明す。
五に「若觀是地者」より下「心得無疑」に至る已來は、正しく觀の利益を顯すことを明す。即ち其の四有り。一には法を指すことを明す。唯寶地を觀じて餘境を論ぜず。二には無漏の寶地を觀ずるに因て、能く有漏多劫の罪を除くことを明す。三には身を捨てて已後、必ず淨土に生ずることを明す。