縱使ひ地前の菩薩・羅漢・辟支等、若しは一若しは多、乃至十方に徧滿して、皆經論の證を引きて生ぜずと言ふも、我亦未だ一念の疑心を起さず、唯我が淸淨の信心を增長し成就せん。何を以ての故に、佛語は決定成就の了義にして、一切の爲に破壞せられざるに由るが故なり。又行者善く聽け。縱使ひ初地已上十地已來、若しは一若しは多、乃至十方に徧滿して、異口同音に、皆釋迦佛彌陀を指讚し、三界・六道を毀呰し、衆生を勸勵して、專心に念佛し、及び餘善を修せば、此の一身を畢へて後、必定して彼國に生ずといふは、此れ必ず虚妄なり、依信すべからずと云はん。我此等の所説を聞くと雖も、亦一念の疑心を生ぜず、唯我が決定の上上の信心を增長し成就せん。何を以ての故に、乃し佛語は眞實決了の義なるに由るが故に、佛は是實知・實解・實見・實證にして、是疑惑心の中の語に非ざるが故に。又一切菩薩の異見・異解の爲に破壞せられず。若し實に是菩薩ならば、衆て佛敎に違せず。又此の事を置く、行者當に知るべし。縱使ひ化佛・報佛、若しは一若しは多、乃至十方に徧滿して、各各光を輝かし舌を吐きて、徧く十方に覆ひて、一一に説きて釋迦の所説を相讚して、一切の凡夫、專心に念佛し及び餘善を修し、廻願して彼の淨土に生ずることを得と勸發するは、此は是虚妄なり、定んで此の事無しと言はん。我此等の諸佛の所説を聞くと雖も、畢竟じて一念疑退の心を起して彼の佛國に生ずることを得ざらんことを畏れず。何を以ての故に、一佛一切佛なれば、所有の知見・解行・證悟・果位・大悲、等同にして少しきの差別無し。是の故に一佛の制したまふ所をば、即ち一切佛同じく制したまふ。前佛の制斷の如似き殺生・十惡等の罪、畢竟じて犯さず行ぜざるをば、即ち十善・十行と名く、六度の義に隨順す。若し後佛ありて世に出でて、豈前の十善を改めて十惡を行ぜしむべけんや。此の道理を以て推驗するに、