正しく南北に避り走らんと欲すれば、惡獸・毒蟲競ひ來りて我に向ふ。正しく西に向ひ道を尋ねて去かんと欲すれば、復恐らくは此の水火の二河に墮せんことを。時に當りて惶怖すること、復言ふべからず。即ち自ら思念すらく。我今廻らば亦死せん、住まらば亦死せん、去かば亦死せん。一種として死を勉れざれば、我寧く此の道を尋ねて、前に向ひて去かん。既に此の道有り、必ず度すべしと。此の念を作す時、東の岸に忽に人の勸むる聲を聞く。仁者但決定して此の道を尋ねて行け、必ず死の難無けん。若し住まらば即ち死せんと。又西の岸の上に人有りて喚ばうて言く。汝一心に正念にして直に來れ、我能く汝を護らん。衆て水火の難に墮せんことを畏れざれと。此の人既に此に遣はし彼に喚ぶを聞きて、即ち自ら正しく身心に當て、決定して道を尋ねて直に進みて、疑怯退心を生ぜずして、或は行くこと一分二分するに、東の岸の羣賊等喚ばうて言く。仁者廻り來れ、此の道嶮惡なり、過ぐることを得ず。必ず死せんこと疑はず。我等衆て惡心ありて相向かふこと無しと。此の人喚ぶ聲を聞くと雖も、亦廻顧ず、一心に直に進みて道を念じて行けば、須臾に即ち西の岸に到りて、永く諸の難を離る。善友相見て慶樂すること已むこと無からんが如し。此は是喩なり。次に喩を合せば、東岸と言ふは、即ち此の娑婆の火宅に喩ふるなり。西岸と言ふは、即ち極樂寶國に喩ふるなり。羣賊・惡獸許り親むと言ふは、即ち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩ふるなり。無人空迥の澤と言ふは、即ち常に惡友に隨ひて眞の善知識に値はざるに喩ふるなり。水火二河と言ふは、即ち衆生の貪愛は水の如し、瞋憎は火の如しと喩ふるなり。中間の白道四五寸と言ふは、即ち衆生の貪瞋煩惱の中に、能く淸淨願往生の心を生ぜしむるに喩ふるなり。乃し貪瞋強きに由るが故に、即ち水火の如しと喩ふ。善心微なるが故に、白道の如しと喩ふ。又水波常に道を溼すとは、即ち愛心常に起りて能く善心を染汚するに喩ふるなり。又火燄常に道を燒くとは、即ち瞋嫌の心能く功德の法財を燒くに喩ふるなり。人道の上を行きて直に西に向ふと言ふは、