希有の法を見聞することを得たりと雖も、麤心懈怠にして益々功無し。縱使ひ連年に放に腳走して、趂りて得んとするも、貪瞋内胸に滿てり。貪瞋は即ち是身の三業なり。何ぞ淨土の裏の眞空を開かん。語を同生の善知識に寄す、佛の慈悲を念じて聖藂に入れ。衆等心を傾けて皆往かんことを願じて、手に香華を執りて常に供養したてまつれ。

 高下に接して讚じて云へ。 下高に接して讚じて云へ。

[轉經分 第十段]
 高座入文。

「舍利弗、我今阿彌陀佛の不可思議の功德を讚歎するが如く、東方に亦阿閦鞞佛・須彌相佛・大須彌佛・須彌光佛・妙音佛、是の如き等の恆河沙數の諸佛有まして、各々其の國に於て廣長の舌相を出し、徧く三千大千世界に覆ひて、誠實の言を説きたまはく。汝等衆生、當に是の稱讚不可思議功德、一切諸佛の護念したまふ所の經を信ずべし。」

 下高に接して讚じて云へ。

願はくは往生せん、願はくは往生せん。釋迦如來、常に東方恆沙の等覺尊を讚嘆したまふ。大悲同じく化して心無二なり。一佛の施功多も亦然なり。凡夫疑見の執を斷ぜんが爲に、皆舌相を舒べて三千に覆ひて、共に七日名號を稱することを證し、又釋迦の言説の眞なることを表す。終時に正意にして彌陀を念ずれば、佛の慈光の來りて身照らすを見る。此の彌陀の本願力に乘じて、一念の間に寶堂に入る。寶堂の莊嚴限極無し。化佛聖衆坐して思量す。心性は百千の日よりも明かなり。悲智雙行せること法爾として常なり。我今既に無爲の處に到る。