九品の位に判じて、諸師の所判の深高なるを許さず。又經論は多くは文に依て義を判ず。今の經の所説の上三品の業、何ぞ必ずしも執して深位の行と爲んや。 問。若し爾らば彼に生じて早く无生法忍を悟るべからず。答。天台に二の无生忍の位有り。若し別敎の人ならば、歴劫修行して无生忍を悟る。若し圓敎の人ならば、乃至惡趣の身にても亦頓證する者有り。穢土尚爾なり、何に況や淨土をや。彼の土の諸事は餘處に例すること莫れ。何れの處か一切の凡夫、未だ其の位に至らず終に退墮すること无く、何れの處か一切の凡夫、悉く五神通を得て、妙用无碍ならんや。證果の遲速例して亦然るべし。 問。上品生の人の、得益の早晩は一向に爾なりや。答。經の中には且く一類を擧ぐるのみ。故に慧遠和尚の『觀經義記』(卷末)に云く。「九品の人の、彼の國に生れ已りて、益を得る劫數は、勝れたるに依て而も説けり。理は亦之に過ぎたる者有るべし」と。取意 今謂く、汎く九品を論ぜば、或は復少分此より速なる者有るべし。 問。『雙卷經』の中にも、亦彌勒等の諸の大菩薩の如き有りて、當に極樂に生ずべき。故に知んぬ、經の中の九品の得益は、劣なるに依て而も説くなり、何ぞ勝に依ると言ふや。答。彼の國に生じて始めて无生を悟る前後早晩に約して、之を勝に依ると謂ふ。更に彼の上位の大士をば論ぜず。然も彼の大士を、九品の中に攝すると攝せざるとは、別に思擇すべし。 問。若し凡下の輩も亦往生することを得ば、云何ぞ近代彼の國土に求むる者は千万なるも、得るものは一二も无きや。答。綽和尚(安樂集卷下意)云く。「信心深からず、存ぜるが若し亡ぜるが若きの故に。信心一ならず、決定せざるが故に。信心相續せず、餘念間つるが故に。此の三相應せざれば、往生すること能はず。若し三心を具して往生せずといはば、是の處有ること无けん」と。導和尚(禮讚)の云く。「若し能く上の如く念念相續して畢命を期と爲る者は、十は即ち十ながら生じ、百は即ち百ながら生ず。若し專を捨てて雜業を修せんと欲する者は、