百は時に希に一二を得、千は時に希に三五を得」と。上の如く言ふは、禮讃等の五念門、至誠等の三心、長時等の四修を指すなり  問。若し必ず畢命を期と爲さば、如何ぞ感和尚(群疑論卷一)は「長時・短時、多修・少修、皆往生すること得」と云へるや。答。業類一に非ず、故に二師倶に過无し。然れども畢命を期と爲し、勤修怠ること无くば、業をして決定せしむるに是を張本と爲す。 問。『菩薩處胎經』の第二(卷三)に説かく。「西方此の閻浮提を去ること十二億那由他に懈慢界有り、國土快樂にして、倡妓樂を作す。衣被・服飾・香華もて莊嚴せり。七寶轉開の床ありて目を擧げて東を視るに、寶床隨ひて轉ず。北を視西を視南を視るも、亦是の如く轉ず。前後に意を發する衆生、阿彌陀佛國に生れんと欲ふ者、皆懈慢國土に深く著して、前進みて阿彌陀國に生るること能はず。億千万の衆、時に一人有りて能く阿彌陀佛國に生ず」と。已上 此の經を以て准難するに生を得べしや。答。『群疑論』(卷四)に善導和尚の前の文を引き、而して此の難を釋して、又自ら助成して云く。「此の經の下の文に云く。何を以ての故に、皆懈慢に由て執心牢固ならずと。是に知んぬ、雜修の者は、執心不窂の人と爲す、故に懈慢國に生ずるなり。若し雜修せずして專ら此業に行ぜば、此即ち執心牢固にして定めて極樂國に生ぜん。乃至 又報の淨土に生ずる者は極めて少なし、化の淨土の中に生ずる者は少からず。故に經に別説、實に相違せざるなり」と。已上  問。設ひ三心を具せずと雖も、畢命を期せずと雖も、彼の一び名を聞くすら尚成佛することを得といふ。況や暫くも稱念する、何ぞ唐捐ならんや。答。暫くは唐捐なるに似たれども、終には虚設にあらず。『華嚴』(晋譯卷二三)の偈に聞經の者の轉生の時の益を説きて云へるが如し。「若し人聞くに堪任へたるは、大海及び劫盡の火の中に在りと雖も必ず此の經を聞くことを得ん」と。大海は是龍界なり 『釋』(深玄記卷一〇意)に云く。餘の業に由るが故に彼の難處に生じ、前の信に由るが故に此の根器を成ず」と。云云 『華嚴』を信ずる者にして、既に是の如し。念佛を信ぜん者、