たとえば、日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下、明らかにして闇きことなきがごとし。
信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん、すなわち横に五悪趣を超截す。
一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、
仏、広大勝解の者と言えり。この人を分陀利華と名づく。
弥陀仏の本願念仏は、邪見憍慢の悪衆生、
信楽受持すること、はなはだもって難し。難の中の難、これに過ぎたるはなし。
印度・西天の論家、中夏・日域の高僧、
大聖興世の正意を顕し、如来の本誓、機に応ぜることを明かす。
釈迦如来、楞伽山にして、衆のために告命したまわく、
南天竺に、龍樹大士世に出でて、ことごとく、よく有無の見を摧破せん。
大乗無上の法を宣説し、歓喜地を証して、安楽に生ぜん、と。
難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽せしむ。
弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即の時、必定に入る。
ただよく、常に如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべし、といえり。