仏自ら問うて自ら徴したまうにあらずは、解を得ること由なきことを明かす。二は如来還りて自ら前の三心の数を答えたまうことを明かす。『経』に云わく、「一者至誠心」。至とは真なり、誠とは実なり。一切衆生身口意業に修するところの解行、必ず真実心の中に作したまえるを須いんことを明かさんと欲う。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ。内に虚仮を懐きて、貪瞋邪偽奸詐百端にして悪性侵めがたし、事蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。もしかくのごとき安心起行を作すは、たとい身心を苦励して日夜十二時、急に走め急に作すこと、頭燃を炙うがごとくするは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲うは、これ必ず不可なり。何をもっての故に、正しくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も三業の所修、みなこれ真実心の中に作したまいしに由ってなり。おおよそ施したまうところ趣求をなす、またみな真実なりと。また真実に二種あり。一には自利真実、二には利他真実なり」と。文
利他真実について、また二種あり。
一には、「おおよそ施したまうところ趣求をなすは、またみな真実なり」と。
二には、「不善の三業は必ず真実心の中に捨てたまいしを須いよ、またもし善の三業を起こさば必ず真実心の中に作したまいしを須いて、内外明闇を簡ばず、みな真実を須うるがゆえに、至誠心と名づく」と。文
「自利真実と言うは、また二種あり。
一には真実心の中に自他の諸悪および穢国等を制捨して、行住座臥に「一切菩薩の諸悪を制捨するに同じく、