この願のこころは、「たといわれ仏をえたらんに、十方の衆生、菩提心をおこし、もろもろの功徳を修して、心をいたし、願をおこして、わがくににうまれんとおもわん、いのちおわるときにのぞみて、たとい大衆と囲繞して、そのひとのまえに現ぜずは、正覚をとらじ」となり。「修諸功徳」というは諸行なり。「現其人前」というは来迎なり。諸行の修因にこたえて来迎にあずかるべしということ、その義あきらかなり。されば、得生は十八の願の益、来迎は十九の願の益なり。この両願のこころをえなば、経文にも解釈にも来迎をあかせるは、みな十九の願の益なりとこころうべきなり。ただし、念仏の益に来迎あるべきようにみえたる文証、ひとすじにこれなきにはあらず。しかれども、聖教において、方便の説あり、真実の説あり、一往の義あり、再往の義あり。念仏において来迎あるべしとみえたるは、みな浅機を引せんがための、一往方便の説なり。深理をあらわすときの再往真実の義にあらずとこころうべし。当流の料簡かくのごとし。善導和尚の解釈にいわく、「道里雖遙 去時一念即到」(序分義)といえり。こころは「浄土と穢土と、そのさかいはるかなるににたりといえども、まさしくさるときは、一念にすなわちいたる」というこころなり。往生の時分一念なれば、そのあいだには、さらに来迎の儀式もあるべからず。まどいをひるがえして、さとりをひらかんこと、ただたなごころをかえすへだてなるべし。かくのごときの義、もろもろの有智のひとそのこころをえつべし。
問うていわく、経文について十八・十九の両願をもって、得生と来迎とにわかちあつる義、一流の所談ほぼきこえおわりぬ。ただし解釈についてなお不審あり。諸師の釈はしばらくこれをさしおく。まず善導一師の