「西方此の四十二恆河沙の佛土を去りて世界有り、名けて無勝と曰ふ。彼の土の所有莊嚴亦西方極樂世界の如し、等しくして異有ること無し。我彼の土於り世に出現して、衆生を化せんが爲の故に來りて此の娑婆國土に在り。但我此の土に出づるのみに非ず、一切の如來も亦復是の如し」と。即ち其の證なり。 問て曰く。『鼓音經』(意)に云く。「阿彌陀佛に父母有り」と。明かに知んぬ、是報佛・報土に非ずや。答て曰く。子は但名を聞きて經の旨を究め尋ねずして此の疑を致す。謂つべし、之を毫毛に錯りて之を千里に失すと。然れども阿彌陀佛亦三身を具したまへり。極樂に出現したまふは即ち是報身なり、今父母有りと言ふは、是穢土の中に示現したまへる化身の父母なり。亦釋迦如來の如し。淨土の中に成じたまふは、其れ報佛なり。此の方に應來して父母有ることを示して成じたまへる、其れ化佛なり。阿彌陀佛も亦復是の如し。又『鼓音聲經』(意)に云ふが如し。「爾の時阿彌陀佛聲聞衆と倶なりき、國を淸泰と號す、聖王の所住なり、其の城は縱廣十千由旬なり。阿彌陀佛の父は是轉輪聖王なり、王をば月上と名け、母を殊勝妙顏と名く。魔王をば無勝と名け、佛子を月明と名け、提婆達多をば寂意と名け、給侍の弟子をば無垢稱と名く」と。又上來引く所は竝びに是化身の相なり。若し是淨土ならば豈輪王及び城女人等有らんや。此即ち文義昞然なり、何ぞ分別を待たん。皆善く尋ね究めずして名に迷ひて執を生ぜしむることを致すなり。 問て曰く。若し報身に隱沒休息の相有らば、亦淨土に成壞の事有るべし。答て曰く。斯の如きの難は古より今に將りて義亦通じ難し。然りと雖も今敢て經を引きて證と爲す。義亦知るべし。譬へば佛身は常住なれども衆生涅槃有りと見るが如し。淨土も亦爾なり。體は成壞に非ざれども衆生の所見に隨ひて成有り壞有り。『華嚴經』(晋譯卷四)に云ふが如し。「由し導師の種種無量の色を見るが如く、衆生の心行に隨ひて佛刹を見ることも亦然なり」と。