百盲偏執し雜亂無知にして往生を妨礙せんことを。今且く少状を擧げて一一之を破すべし。 第一に大乘の無相を妄計するを破すとは、 問て曰く。或は人有りて言く。大乘は無相なり彼此を念ずること勿れ。若し淨土に生ぜんことを願ぜば便ち是取相なり、轉た漏縛を增すべし。何を用てか之を求めんと。答て曰く。此の如きの計は將に謂ふに然らず。何となれば一切諸佛の説法は要ず二縁を具す。一には法性の實理に依る、二には須く其の二諦に順ずべし。彼は大乘無念は但法性に依ると計して然も縁求を謗り無みす。即ち是二諦に順ぜず。此の如きの見は滅空の所收に墮す。是の故に『無上依經』(卷上意)に云く。「佛阿難に告げたまはく。一切の衆生若し我見を起すこと須彌山の如くならんも、我懼れざる所なり。何を以ての故に、此の人は未だ即ち出離を得ずと雖も、常に因果を壞せず、果報を失はざるが故に。若し空見を起すこと芥子の如くなるも我即ち許さず。何を以ての故に。此の見は因果を破り喪ひて多く惡道に墮す。未來の生處必ず我が化に背く」と。今行者に勸む、理無生なりと雖も然も二諦の道理縁求無きに非ず、一切往生を得る。是の故に『維摩經』(卷中意)に云く。「諸佛の國と及び衆生とは空なりと觀ずと雖も、而も常に淨土を修して諸の羣生を敎化す」と。又彼の『經』(維摩經卷中)に云く。「無作を行ずと雖も而も受身を現ず。是菩薩の行なり。無起を行ずと雖も而も一切の善行を起す。是菩薩の行なり」と。是其の眞證なり。 問て曰く。今世間に人有り、大乘の無相を行じ亦彼此を存せず。全く戒相を護らず。是の事云何。答て曰く。此の如きの計は害を爲すこと滋々甚し。何となれば『大方等經』(大方等陀羅尼經卷四意)に云ふが如し。「佛優婆塞の爲に戒を制す、寡婦・處女の家に至ることを得ざれ。沽酒家・藍染家・押油家・熟皮家と、悉く往來することを得ざれと。阿難佛に白して言さく。世尊、何等の人の爲にか斯の如き戒を制したまふやと。佛阿難に告げたまはく。行者に二種有り。一には在世の人の行、二には出世の人の行なり。