出世の人には吾上の事を制せず。在世の人には吾今之を制す。何を以ての故に。一切衆生は悉く是吾が子なり。佛は是一切衆生の父母なり。遮制約勒して早く世間を出で涅槃を得しむるが故に」と。
第二に菩薩愛見の大悲を會通すとは、 問て曰く。大乘の聖敎に依るに、菩薩諸の衆生に於て、若し愛見の大悲を起さば即ち應に捨離すべし。今衆生を勸めて共に淨土に生ぜしむ、豈愛染取相に非ずや、若爲ぞ其の塵累を免れんや。答て曰く。菩薩の行法功用に二有り。何となれば、一には空慧般若を證る、二には大悲を具す。一に空慧般若を修する力を以ての故に、六道生死に入ると雖も塵染の爲に繋がれず。二に大悲を以て衆生を念ずるが故に、涅槃に住せず。菩薩二諦に處すと雖も、常に能く妙に有無を捨て、取捨中を得て大道理に違せざるなり。是の故に『維摩經』(卷上)に云く。「譬へば人有りて空地に於て宮舍を造立せんと欲せば意に隨ひて礙無きも、若し虚空に於ては終に成ずること能はざるが如し。菩薩も亦是くの如し。衆生を成就せんと欲するが爲の故に佛國を取らんと願ず。佛國を取らんと願ずるは空に於てするには非ざるなり」と。
第三に心外無法と繋するを破すとは、中に就て二有り。一には計情を破し、二には問答解釋す。 問て曰く。或は人有りて言く。所觀の淨境は内心に約就すれば淨土融通す。心淨ければ即ち是なり、心外に法無し、何ぞ西に入るを須ひんや。答て曰く。但法性の淨土は理虚融に處し、體偏局無し、此れ乃ち無生の生にして、上士のみ入るに堪へたり。是の故に『無字寶篋經』(意)に云く。「善男子復一法有り、是佛の覺る所なり。所謂諸法は不去・不來・無因・無縁・無生・無滅・無思・無不思・無增・無減なり。佛羅睺羅に告げて言はく。汝今我が此の所説の正法義を受持するやいなやと。爾の時十方に九億の菩薩有りて、即ち佛に白して言さく。