木瓜の枝を炙りて之を慰せば患へる者即ち愈ゆるも、或は木瓜無くば手を炙りて之を磨りて、口に「木瓜木瓜」と喚ばんに患へる者亦愈ゆるなり。吾身に其の效を得たり。何を以ての故に、名の法に即するを以ての故に。名の法に異なる有りとは、指を以て月を指すが如き是なり。 又問て曰く。若し人但彌陀の名號を稱念すれば能く十方の衆生の無明の黑闇を除きて往生を得といはば、然るに衆生有りて名を稱し憶念すれども而も無明猶在りて所願を滿てざるは何の意ぞ。答て曰く。如實脩行せず、名義と相應せざるに由るが故なり。所以は何ん、謂く如來は是實相身、是爲物身なりと知らざればなり。復三種の不相應有り、一には信心淳からず、存せるが若し亡ぜるが若きの故に。二には信心一ならず、謂く決定無きが故に。三には信心相續せず、謂く餘念間つるが故に。迭相に收攝す。若し能く相續すれば則ち是一心なり。但能く一心なれば即是淳心なり。此の三心を具して若し生れずといはば是の處り有ること無けん。
[第三大門]
第三大門の中に四番の料簡有り。第一に難行道・易行道を辨ず。第二に時劫の大小不同を明かす。第三に無始世劫より已來、此の三界五道に處し善惡二業に乘じて苦樂の兩報を受け、輪廻無窮にして生を受くること無數なることを明かす。第四に聖敎を將て證成して後代を勸めて信を生じ往を求めしめむ。
[第三大門 一、難易二道]
第一に難行道・易行道を辨ずとは、中に於て二有り。一には二種の道を出し、二には問答解釋す。余既に自ら火界に居して實に想ふに怖を懷けり。仰いで惟みれば大聖三車もて招慰し、且く羊鹿の運、權息未だ達せず。佛邪執は上求菩提を鄣ふと訶したまふ。縱ひ後に廻向するも仍迂廻と名く。若し徑に大車に擧づるも亦是一途なり。只恐らくは現に退位に居して嶮徑遙長なることを。自德未だ立たず、昇進すべきこと難し。是の故に龍樹菩薩(論註卷上所引易行品意)云く。「阿毘跋致を求むるに二種の道有り。一には難行道、二には易行道なり。