難行道と言ふは、謂く五濁の世無佛の時に在りて阿毘跋致を求むるを難と爲す。此の難に乃し多途有り。略して述ぶるに五有り。何となれば一には外道の相善は菩薩の法を亂る。二には聲聞は自利にして大慈悲を鄣ふ。三には惡を顧ること無き人は他の勝德を破る。四には所有人天の顛倒の善果人の梵行を壞る。五には唯自力のみ有りて他力の持つ無し。斯の如き等の事目に觸るるに皆是なり。譬へば陸路の歩行は則ち苦しきが如し、故に難行道と曰ふ。易行道と言ふは、謂く信佛の因縁を以て淨土に生ぜんと願じ心を起し德を立て諸の行業を修せば、佛願力の故に即便ち往生す、佛力住持するを以て即ち大乘正定の聚に入る。正定聚は即ち是阿毗跋致不退の位なり。譬へば水路に船に乘ずれば則ち樂しきが如し、故に易行道と名くるなり」と。 問て曰く。菩提は是一なり。修因亦應に不二なるべし。何が故ぞ此に在りて因を修して佛果に向ふを名けて難行と爲し、淨土に往生して大菩提を期するをば乃ち易行道と名くるや。答て曰く。諸の大乘經に辨ずる所の一切の行法皆自力・他力、自攝・他攝有り。何者か自力なる。譬へば人有りて生死を怖畏して發心出家して定を修し通を發して四天下に遊ぶが如きを名けて自力と爲す。何者か他力なる。劣夫有りて己身の力を以て驢に擲ち上らざれども、若し輪王に從へば即便ち空に乘じて四天下に遊ぶが如し。即ち輪王の威力の故に他力と名く。衆生も亦爾なり。此に在りて心を起し行を立て淨土に生れんと願ず、此は是自力なり。命終の時に臨みて阿彌陀如來光臺迎接して遂に往生を得るを即ち他力と爲す。故に『大經』(卷上意)に云く。「十方の人天、我國に生ぜんと欲はん者は皆阿彌陀如來の大願業力を以て增上縁と爲さざるは莫し」と。若し是くのごとくならずば四十八願便ち是徒設ならん。後の學者に語る、既に他力の乘ずべき有り、自ら己が分を局りて徒に火宅に在ることを得ざれ。