命終らんと欲する時、阿彌陀佛、化佛・菩薩・大衆とともに、一時に手を授けて即ち彼の國に生ず」と。此の文を以て證するに、亦是佛世を去りたまひて後、大乘の凡夫、行業稍弱くして終時の迎候に異有らしむることを致す。然るに初地より四地已來の菩薩は、其の功用を論ずるに、『華嚴經』(晋譯卷二三意)に説くが如し。乃ち是不可思議なり。豈韋提の請を致すに藉りて、方に往生を得んや。上が中を返對し竟んぬ。次に上が下を對せば、諸師の是種性以上初地に至る已來の菩薩と云ふは、何が故ぞ。『觀經』に云く。「亦因果を信ず」と。云何が亦信なる。或は信じ信ぜず、故に名けて亦と爲す。又言く。「大乘を謗ぜず、但無上道心を發す」と。唯此の一句を以て正業と爲す、更に餘善無し。「斯の一行を廻して、往生を求願すれば、命終らんと欲する時、阿彌陀佛、化佛・菩薩・大衆とともに、一時に手を授けて即ち往生を得」(觀經意)と。斯の文を以て證するに、唯是佛世を去りたまひて後、一切の大乘心を發せる衆生、行業強からずして去時の迎候に異有らしむることを致す。若し此の位の中の菩薩の力勢を論ずれば、十方淨土に意に隨ひて往生するなり。豈韋提其が爲に佛を請するに藉りて、勸めて西方極樂國に生ぜんや。上が下を返對し竟んぬ。即ち此の三品は去時異有り。云何が異なる。上が上の去時は、佛無數の化佛と一時に手を授く。上が中の去時は、佛千の化佛と一時に手を授く。上が下の去時は、佛五百の化佛と一時に手を授く。直だ是業に強弱有りて、斯の差別有らしむることを致すのみ。
次に中輩の三人を對せば、諸師の中が上は是小乘の三果と云ふは、何が故ぞ、『觀經』(意)に云く。「若し衆生有りて、五戒・八戒を受持し、諸の戒を修行して五逆を造らず、衆の過患無からん。命終らんと欲する時、阿彌陀佛、比丘聖衆と與に、光を放ち法を説きて來りて其の前に現じたまふ。此の人見已りて即ち往生を得」と。此の文を以て證するに、