亦是佛世を去りたまひて後、小乘戒を持てる凡夫なり。何ぞ小聖ならんや。中が中といふは、諸師の見道已前の内凡と云ふは、何が故ぞ。『觀經』(意)に云く。「一日一夜の戒を受持して往生を廻願す、命終らんと欲する時、佛を見て即ち往生を得」と。此の文を以て證するに、豈是内凡の人と言ふことを得んや。但是佛世を去りたまひて後の無善の凡夫、命延ぶること日夜、小縁の其れが小戒を授くるに逢遇ひて、往生を廻願す、佛の願力を以て即ち生ずることを得るなり。若し小聖を論ずれば去くこと亦妨無し。但此の『觀經』は佛凡の爲に説きたまふ、聖の于にせざるなり。中が下といふは、諸師の小乘の内凡已前の世俗の凡夫、唯世福を修して出離を求むと云ふは、何が故ぞ。『觀經』(意)に云く・「若し衆生有りて父母に孝養し、世の仁慈を行ぜん、命終らんと欲する時、善知識爲に彼の佛の國土の樂事四十八願等を説くに遇ひて、此の人聞き已りて即ち彼の國に生ず」と。此の文を以て證するに、但是佛法に遇はざる人、孝養を行ずと雖も、亦未だ心に出離を希求すること有らず。直是臨終に善の勸めて往生せしむるに遇ふ、此の人勸に因て廻心して即ち往生を得。又此の人世に在りて自然に孝を行ず、亦出離の爲の故に孝道を行ぜざるなり。
次に下輩の三人を對せば、諸師の此等の人は乃ち是大乘始學の凡夫なり、過の輕重に隨ひて分ちて三品と爲す、未だ道位有らず、階降を辨へ難しと云ふは、將に謂ふに然らず。何となれば、此の三品の人佛法・世俗の二種の善根有ること無し、唯惡を作ることを知る。何を以てか知ることを得る。下が上の文(意)に説くが如し。「但五逆と謗法とを作らず、自餘の諸惡は悉く皆具に造りて、慙愧乃至一念も有ること無し。命終らんと欲する時、善知識爲に大乘を説き敎へて佛を稱せしむるに遇ひて一聲す。爾の時阿彌陀佛、即ち化佛・菩薩を遣はして此の人を來迎して、即ち往生を得しむ」と。但此の如きの惡人、目に觸るるに皆是なり。若し善縁に遇はば、即ち往生を得、