毎に前の恩を念ひ、忍びて而も語はざりしかば、宗親戚屬、咸く見て恠異す。年六十有五を過ぎたるとき、我が妻謂ひて曰く、汝言ふべし、若し語はずば、當に汝が子を殺すべし。我時に惟念へらく、已に生世を隔て、自ら顧みれば衰老して、唯此の稚子のみあり。因て其の妻を止めて、殺害すること無からしめんと。遂に此の聲を發するのみと。隱士曰く、我の過なり、此れ魔の嬈ませるのみと。烈士は恩を感じて、事の成らざるを悲み、憤恚して死せり」と。已上略抄 夢の境是の如し。諸法も亦然なり。妄想の夢未だ覺めず、空に於て謂ひて有と爲す。故に『唯識論』(成唯識論卷七)に云く。「未だ眞覺を得ず、常に夢中に處す。故に佛説きて生死の長夜と爲す」と。 問。若し無常・苦・空等の觀を作さば、豈小乘の自調自度に異ならんや。答。此の觀は小に局らず、亦通じて大乘にも在るなり。『法華』(卷四)に云ふが如し。「大慈悲を室と爲し、柔和忍辱を衣とし、諸法の空を座と爲し、此に處して説法を爲せ」と。已上 諸法の空觀すら尚大慈悲心を妨げず、何に況や苦・無常等は、菩薩の悲願を催すをや。是の故に『大般若』等の經には、不淨等の觀を以て、亦菩薩の法と爲せり。若し知らんと欲せば、更に經文を讀め。 問。是の如く觀念すれば何の利益か有る。答。若し常に是の如く心を調伏せば、五欲微薄となり乃至臨終にも、正念にして亂れず、惡處に墮せざるなり。『大莊嚴論』(卷三・八)の勸進繋念の偈に云ふが如し。「盛年にして患無き時は、懈怠にして精進せず。衆の事務を貪營して、施と戒と禪とを修せず。 死の爲に呑まられんとするに臨みて、方に悔いて善を修せんことを求む。(以上卷三) 智者は應に觀察して五欲の想を斷除すべし、精勤して心に習ある者は、終る時に悔恨無し。心意既に專至なれば、錯亂の念有ること無し。智者は勤めて心を投ずれば、臨終に意散ぜず。 習心專至ならざれば、臨終に必ず散亂す(以上卷八)」と。已上 『又寶積經』の五十七の偈に曰く。「應に此の身を觀ずべし。筋脈更に纏繞し、温皮相裹み覆ふ。九の處に瘡門有りて、周遍して常に屎尿諸の不淨を流溢す。譬へば舍と篅とに諸の穀麥等を盛れるが如し。