地・水先づ去るが故に緩慢にして苦無し、何に況や念佛の功積り、運心年深き者は、命終の時に臨みて、大いなる喜自ら生ず。然る所以は、彌陀如來、本願を以ての故に、諸の菩薩、百千の比丘衆と與に、大光明を放ちて、皓然として目の前に在り。時に大悲の觀世音は、百福莊嚴の手を申べ、寶蓮臺を擎げて、行者の前に至りたまひ、大勢至菩薩は、無量の聖衆と與に、同時に讃嘆し、手を授けて引接したまふ。是の時に行者、目のあたり自ら之を見て、心中に歡喜し、身心安樂なること禪定に入るが如し。當に知るべし、草菴に目を瞑づる間、便ち是蓮臺に跏を結ぶ程、即ち彌陀佛の後に從ひ、菩薩衆の中に在りて、一念の項に、西方の極樂世界に生ずることを得ん。『觀經』『平等覺經』并に傳記等の意に依る 彼の忉利天上の億千歳の樂も、大梵王宮の深禪定の樂も、此等の諸の樂は未だ樂と爲すに足らず。輪轉際無く三途を免れず。而るに今觀音の掌に處し、寶蓮の胎に託しなば永く苦海を越過して、初めて淨土に往生するなり。爾の時の歡喜の心は、言を以て宣ぶべからず。龍樹の『偈』(十住毗婆沙論卷五 易行品)に云く。「若し人命終の時に、彼の國に生ずることを得る者は、即ち無量の德を具す。是の故に我歸命したてまつる」と。
[二、欣求淨土 蓮華初開]
第二に蓮華初開の樂とは、行者彼の國に生じ已りて、蓮華初めて開く時、所有歡樂前に倍すること百千なり。猶し盲者の始めて明眼を得たるが如し、亦邊鄙のもの忽に王宮に入れるが如し。自ら其の身を見れば、身は既に紫磨金色の體と作り、亦自然の寶衣有りて、鐶・釧・寶冠、莊嚴無量なり。佛の光明を見て淸淨の眼を得、前の宿習に因て、衆の法音を聞く。色に觸れ聲に觸るるもの奇妙ならざるは無し。盡虚空界の莊嚴は、眼雲路に迷ひ、轉妙法輪の音聲は、聽寶刹に滿つ。樓殿と林池とは、表裏照曜し、鳧・雁・鴛鴦は遠近に群り飛ぶ。或は衆生の駚雨の如く、十方の世界より生ずるを見、或は聖衆の恒沙の如く無數の佛土より來るを見る。