或は樓臺に登りて十方を望む者有り、或は宮殿に乘じて虚空に住する者有り。或は空中に住して誦經し説法する者有り、或は空中に住して坐禪入定する者有り。地上と林間も亦復是の如し。處處に復河を渉り流に濯ぎ、樂を奏し華を散らし、樓殿に往來して、如來を禮讃する者有り。是の如きの無量の天人聖衆は、心に隨ひて遊戲す。況や化佛・菩薩の香華雲のごとく國界に充滿するは、具に名ふべからず。又漸く眸を廻らして遙かに以て瞻望したてまつれば、彌陀如來は金山王の如く、寶蓮華の上に坐し、寶池の中央に處りたまひ、觀音・勢至は威儀尊重にして、亦寶華に坐して佛の左右に侍り、無量の聖衆は恭敬し圍繞す。又寶地の上には寶樹行列し、寶樹の下には各々一佛と二菩薩有ます。光明もて嚴飾し瑠璃地に遍きこと、夜闇の中に大炬火を燃せるが如し。時に觀音・勢至行者の前に來至して、大悲の音を出して、種種に慰喩したまふ。行者蓮臺より下りて五躰を地に投げ、頭面に敬禮したてまつる。即ち菩薩に從ひ、漸く佛の所に至り、七寶の階に跪きて、万德の尊容を瞻たてまつり、一實の道を聞きて、普賢の願海に入る。歡喜して涙を雨らし、渇仰して骨に徹る。始めて佛界に入りて曾有なることを得。行者昔娑婆に於て、纔に敎文を讀みしも、今正しく此の事を見る。歡喜の心幾くぞや。多く『觀經』等の意に依る 龍樹の『偈』(十住毗婆沙論卷五易行品)に曰く。「若し人善根を種ゑて、疑へば則ち華開けず、信心淸淨なる者は、華開けて則ち佛を見たてまつる」と。
[二、欣求淨土 身相神通]
第三に身相神通の樂とは、彼の土の衆生は、其の身眞金色にして、内外倶に淸淨なり。常に光明有りて、彼此互に照らす。三十二相、莊嚴を具足し、端正殊妙にして、世間に比無し。諸の聲聞衆は身の光一尋にして、菩薩の光明は百由旬を照らす。或は十万由旬とも云へり。第六天の主を以て彼の土の衆生に比せんに、猶し乞丐の帝王の邊に在るが如し。又彼の諸の衆生は、